長崎での日韓交流

 MICの長崎フォーラムには、今月16日にソウルで日韓言論人シンポジウムをMICと共催する韓国言論労組の申鶴林委員長ら3人も参加してくれた。申委員長はフォーラムのあいさつでは、現在は休会に入っている6者協議を何としても成功させねばならないこと、そのために日本を含む関係国は最大限の支援をしてほしいと訴えた。
 また、韓国による北朝鮮への経済支援も報告した。一つは朝鮮半島東部の金剛山の観光開発。もう一つは板門店の北約15キロのケソンという町の工業団地造成。山が多い朝鮮半島で、この2カ所は軍事的にも重要な意味を持つ場所で、もし北朝鮮が韓国に武力侵攻しようとすれば必ず通らなければならないルートだという。その2カ所を北朝鮮が韓国に“開放”したことは、北朝鮮の対韓国政策を象徴している。この経済支援は2000年に金大中大統領がピョンヤンを訪問し、金正日と発表した共同宣言に基づく。
 申委員長らとは長崎滞在中の4日間、色々な話をした。1945年8月の日本の敗戦によって解放されながら、民族分断、そして朝鮮戦争へと進んだ一方、韓国国内では軍事政権の圧制が続いた。冷戦時代、南北それぞれの独裁政権にとっては、分断を固定化することがそれぞれの政権の維持にとってもっとも都合がよかったのだという。だから、朴大統領が射殺された後も、光州事件のように民主化運動は徹底的に弾圧され、多くの人々が殺された。南北統一を阻んでいるのは、実は自国の軍事政権と背後の米国であることに多くの韓国人は気付いていた。とりわけ統制された高校教育から大学に進んで、様々な情報に触れることができた学生たちが、激しい民主化運動に身を投じていったのだという。申委員長らの言葉の一つひとつからは、ようやく民主化を成し遂げ「次はいよいよ民族統一へ」との、静かだが固い決意のようなものがにじみ出ていた。
 「そのとき日本と日本人は何ができるのか」と考えさせられた。実は今、日本と日本人が学ばなければいけないのは、60年前の敗戦までに日本が朝鮮半島やアジア各地で何をしたのか、ということと同時に、あるいはそれ以上に、この戦後の60年間、朝鮮半島やアジアの人々がどんな時代を経験してきたのか、ということではないかと思う。
 朝鮮半島を例にとっても、1945年8月以降の出来事をどれだけの日本人が正確に理解しているだろうか。朝鮮戦争だって、多くの日本人には「朝鮮特需」の記憶と認識しかない。日本が復興を成し遂げたまさに同じ時代を、韓国の人々は民族分断と軍事政権の圧制のもとで過ごさなければならなかった。そして民族分断は、日本の朝鮮半島の植民地支配が遺した負の歴史の産物だ。
 こうした日韓の現代史を共有できれば、例えば6カ国協議の歴史的意義も見えてくるはずだ。19世紀半ば以降、朝鮮半島を中心において北東アジアで激しい争いの歴史を繰り広げてきた各国が一つのテーブルについているのだ。この100年、200年、あるいはそれ以上のこの地域の歴史を踏まえた会話がなければならない。日本が主張しなければならないのは、拉致問題とミサイル開発だけではないだろう。北朝鮮は確かにまともな国家ではない。しかし、確固とした歴史観があれば、日本と北朝鮮の2者関係だけで解決できるものには限界があることに気付くはずだ。南北統一という歴史的な課題と、日本はそのために何ができるのかを常に意識しながら、拉致問題や核・ミサイル開発など個々の課題の解決を探っていかなければならないと思う。
わたしたちはジャーナリズムを仕事にしている。長崎の最後の夜、わたしは申委員長らにこう話した。「歴史とジャーナリズムは本質は同じで、時間の軸が異なるだけだと思う。同時代を対象にしているのか、過去かの違いだ。わたしたちは100年後の歴史家の評価に耐えうるジャーナリズムを残していかなければならないと思う」。
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by news-worker | 2005-08-12 08:39 | メディア  

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