ペルー人容疑者報道に違和感

 広島の女児殺害事件が11月30日のペルー人容疑者逮捕で新局面を迎えている。30日付夕刊に続いて、きょう(12月1日)付の朝刊各紙も紙面で大展開。社会部の職場を離れ、新聞を外側から見るようになって1年4カ月が経ったが、今回の新聞各紙の報道ぶりに正直に言って大きな違和感ととまどいを感じている。
 ネットでチェックしたところでは、けさの朝刊で毎日が「女児の衣類に汗とともに付着していた皮膚組織のDNAが、容疑者のものと一致した」と報じている。読売は「女児の制服についた汗の乾いた跡などのDNA型が一致」と報じている。両紙とも、記事の趣旨はこの「DNA鑑定」結果を決め手として、広島県警が容疑者逮捕に踏み切ったというものだ。それはそれでいいと思う。わたしが取材班に加わっていたとしても、そのこと自体は大きなニュースだと判断すると思う。
 違和感を感じるのはその先なのだが、例えば毎日の同じ記事中には「また、遺体が押し込まれていたガスコンロ用の段ボール箱の中に、粒状チョコレートの包み紙があったが、容疑者の自宅から同じ種類のチョコの外装が見つかった。遺体を押し込む際に、室内にあったチョコの包み紙が段ボール箱に入った可能性があり、有力な物証とみられる」と、「容疑者=犯人」とした書き方をしている。この「容疑者=犯人」の論調は、程度の差はあれ30日夕刊段階から新聞各紙の記事に表れている。30日早朝のネット上のサイトに載っていた記事では「容疑者逮捕で事件は解決した」という表現すらあった。
 警察が容疑者(警察用語では「被疑者」)を犯人視するのは、ある意味では当然だ。「犯人ではないかもしれませんが、怪しいので逮捕しました」では許されないことを彼らはよく知っている。彼らは「こいつは犯人だ」と本当に確信しているから逮捕する。しかし、新聞は違うはずだし、これまでも事件報道の在り方が議論になるたびに、各紙は紙面でいわゆる「無罪推定の原則」を尊重することを表明してきている。しかし、やっぱり実際にやっていることとの間には、大きなかい離がある。違和感を感じざるをえない原因はそこにある。



 話を今回の事件に戻すと、DNA鑑定は指紋と違って「個人の特定」ではなく「タイプの特定」だ。読売の記事は「DNA型の一致」と正確に書いているけれども、毎日は「皮膚組織をDNA鑑定した結果~容疑者のものと一致」と「個人の特定」と読み違いかねない。捜査技術の問題として「型の一致」を「個人の一致」に近づけるべく、鑑定精度を高める努力が続いているとされるが、基本的にはDNA鑑定は「型の一致」でしかなく「有力証拠の一つ」以上の意味はない。他の有力証拠と組み合わせて、容疑者が犯人であることの蓋然性を判断しなければならない。裁判取材の経験から言うと、実際に刑事裁判ではそうした判断になる。
 毎日の記事では、チョコレートの包み紙の話が出てくるが、包み紙と外装が別々に出てきて、だから容疑者と事件を結びつける有力証拠の一つというのも、説得力に乏しい。チョコレート自体は大量生産品で、どこにでも転がっている。むしろ、遺体とともにあった包み紙に容疑者の指紋の付着でもあれば、DNA鑑定以上の有力証拠になりうる。また、指紋の付着がなければ、当然付着しているはずのものがない、ということだ。容疑者が本当に犯人なのか、捜査に予断があるのではないのか、ということになるはずだ。
 DNA鑑定の結果を、捜査の動きをめぐるニュースとして報じるのは、わたしは当然だと思うし、「警察はこういう見方をしている」ということを情報として報じるのもいい。しかし、そのことと容疑者が本当に犯人かどうかは、別の問題のはずだ。メディアが、証拠上の疑問を一つひとつチェックしていくことも重要だ。それが権力の監視機能の具体的な実践のはずだ。警察はそうした報道をいやがるし、記者が捜査幹部から日常的な取材の際にいやがらせも受けるだろう。しかし、ひるんではいけないと思う。DNA鑑定で言えば、今回は対比に使った試料は何で、警察はそれをどう入手したのかが報道では分からない。取材で分かっているのなら書くべきだ。
 今回の事件報道で、もうひとつ気がかりなのは、容疑者が日本語がうまくない、という点だ。犯人性(容疑者が犯人であること)の証明で、分かりやすいのはいわゆる「秘密の暴露」だ。捜査側も知らなかったこと、犯人でなければ知りえないことを自白するかどうか、ということだ。例えば被害者の持ち物の一部が見つからない。自白によって隠し場所から出てきた、ということになれば、その自白は犯人性を示す有力証拠となる。
 今回の容疑者は容疑を否認していると報じられているが、こうしたケースの場合、取材上の今後の焦点の一つは「自白に転じるのか、否認を貫くのか」だ。そしてニュースとしては「自白に転じた」方が圧倒的に大きい。だが、容疑者は日本語がよく分からない。捜査側に悪意がなかったとしても「これはこうではないのか」「(無言)」「そうとしか考えられないだろう」「(無言)」「そうだな!(と声を荒げる)」「(日本語がよく分からないけど怖いから)ハイ」といった誘導尋問で結果的に容疑を認めてしまうことは十分にありうる。そのときに、警察が「秘密の暴露」の装いを持たせてくることも考慮に入れておかなければならない。
 余談だが、刑事裁判に提出される自白調書は多くの場合、時系列を追ったひとつの物語で、流れるような文章になっている。それだけを聞いていると、被疑者が進んで流暢に自白したような錯覚に陥りかねない。しかし、実際の取調べはまったく違う。警察でも検察でもそうだが、一つひとつ、被疑者と取調官の間でやり取りがある。時には激しく取調官から詰め寄られる。アンケート調査とは違うのだ。そうして、取調べ側が聞きたいことを一通り聞き終わると、やり取りを文章にまとめる。被疑者が一人称で語る文章だ。その文章を被疑者に読んで聞かせる。そして「この内容に間違いありません」として、署名させ、拇印を押させる。それが裁判で証拠となる。
 まれに例外がある。取調官と被疑者のやり取りが一問一答で忠実に書かれるが、裁判取材の経験から言うと、強固な否認事件や公安事件などに限られている。
 今回の事件では、取調べの体制、例えば通訳はついているのか、ついているとしたら、どういう人物をどういうルートで手配したのか、弁護士とはどれぐらいの頻度で会っているのか、など、取材側は詳細に事実を押さえた方がいい。なるべく、捜査情報をクロスチェックできるように、弁護士はもちろん、警察以外への取材の手数を繰り出した方がいい。そして、例え捜査批判になろうと、おかしいと思ったら書くべきだ。

 最初に書いた今回の事件の報道への違和感を補足すると、少なくとも昨日(11月30日)の夕刊の段階では、証拠として報道されているものはいずれも単なる状況証拠ばかり。今回の容疑者以外に真犯人がいると仮定しても(これが容疑者にとっての「無罪推定」原則なのだが)、何の矛盾もない。この容疑者以外に犯人はありえない、といえる程の説得力はなかった。なのに「事件は解決した」と断じてしまうことの危うさ。容疑者が三重県に「逃亡」していた、「潜伏先」の三重県で逮捕などの表現もあったが、真犯人がいると仮定したら、三重県に行っていた彼の行動は違った風に見えないだろうか。言葉は不自由、しかし疑われているのは分かる。不安が高まる。気心が知れた仲間と一緒にいたい。実に人間らしい行動ではないだろうか。
 わたしは、今回の容疑者逮捕が冤罪だと言っている訳ではない。今後、捜査が進んで決定的な証拠が出て、最終的に有罪判決が確定するかもしれない。しかし、それまでは疑うべき捜査上の疑問点は徹底的に疑い、書いていくべきだ。その姿勢が報道から見えないことに、今の新聞ジャーナリズムの危うさを感じる。

 今回の事件は「被害者の権利」を考える上でも、いくつかの論点があると思うが、別の機会に書きたい。
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by news-worker | 2005-12-01 11:22 | メディア  

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