東京大空襲と「大本営発表報道」

 61年前のきょう3月10日未明、東京の下町地区、現在の江東区から墨田区にかけての一帯を中心に、米軍のB29爆撃機の大編隊による空襲を受け、10万人以上が犠牲になった。いわゆる「東京大空襲」で、その被害規模は広島、長崎の原爆投下に匹敵するといっていい。
 昨年、戦後60年の取り組みとして、新聞労連が制作・発行した「しんけん平和新聞」創刊号では、この「東京大空襲」も取り上げた。記事を書くために色々と調べ、当時の新聞記事の縮刷版を目にした。報道統制の代名詞のように「大本営発表」という言葉が用いられるが、実際の大本営発表がどんなものだったか、紹介したい。
 以下は1945年3月11日付の朝日新聞。

(引用開始)
B29約百三十機、昨暁
帝都市街を盲爆
約五十機に損害 十五機を撃墜す
「大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
 撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機

(引用終わり)




 記事は1面トップ。4段の見出しに続いて、まず「大本営発表」が掲載されている。発表文の全文は上記の通り。阿鼻叫喚のうちに10万人が命を奪われていたのに、発表文で具体的に触れている被害といえば「都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は-」とあるだけ。つまり「火災があちこちで起きたが、皇居の厩(うまや)の火災は間もなく鎮火した、そのほかのところも夜明けには鎮火した」と書かれているだけだ。
 また「盲爆」という用語も使っているが、米軍機は決してやみくもに爆撃したわけではない。今日の検証では、用意周到に爆撃コースを定め、燃えやすい日本家屋に合わせて爆弾ではなく焼夷弾(ナパーム弾)を大量に投下したことが分かっている。住民の避難路を断つかのように、まず長方形に火災が発生するように焼夷弾を投下し、次いで長方形の中の攻撃に移っている。東京大空襲が「無差別大量殺戮」とされるゆえんだが、「大本営発表」は「盲爆」と表現し、被害の実相も覆い隠し、迎撃の戦果だけを誇大に誇張した。
 朝日新聞の紙面はこの後、自社の記者が書いた記事が続く(一部は現代語の表現に修正。ところどころ縮刷版は読みづらく、転記ミスがあるかもしれないが、大意に影響はないと思う)。

(引用開始)
単機各所から低空侵入
敵機の夜間来襲が激化しつつあったことは敵の企図する帝都の夜間大空襲の前兆として既に予期されていたことであったが、敵はついに主力をもって帝都を、一部をもって千葉、宮城、福島、岩手の各県に本格的夜間大空襲を敢行し来たった。
まず房総東方海上に出現した敵先導機は本土に近接するや、少数機を極めて多角的に使用しつつわが電波探知を妨害して単機ごとに各所より最も低いのは千メートル、大体三千メートル乃至四千メートルをもって帝都に侵入し来たり帝都市街を盲爆する一方、各十機内外は千葉県をはじめ宮城、福島、岩手県下に焼夷弾攻撃を行った。
帝都各所に火災発生したが、軍官民は不適な敵の盲爆に一体となって対処したため、帝都上空を焦がした火災も朝の八時ごろまでにはほとんど鎮火させた。また右各県では盛岡、平に若干の被害があったのみで他はほとんど被害はなかった。
この敵の夜間大空襲を邀(よう)撃してわが空地制空部隊は帝都上空および周辺上空において壮烈な邀撃戦を敢行して大規模な初の夜間戦闘において撃墜十五機、損害五十機の赫々たる戦果を収めた。
現下の防御態勢においてかくのごとき敵空襲は避けがたく敵は本土決戦に備えて全国土を要塞化しつつあるわが戦力の破壊を企図して来襲し来ったものと見られる、しかし、わが本土決戦への戦力蓄積はかかる敵の空襲によって阻止せられるものではなく、かえって敵のこの攻撃に対し邀撃の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。
(引用終わり)

 少し長い引用になったが、これが「大本営発表報道」だ。下町に足を運べば、随所に黒こげになった犠牲者の遺体が転がり、惨状は歴然としている。一目瞭然だ。なのに「皇居の厩の火事は間もなく鎮火」としか紙面には載せられない。そして「戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう」と書くことの空しさ。
 それから61年が経った。「戦時」を想定した有事法制ができあがり、放送メディアが「国民保護」の名目で取り込まれている。「大本営発表報道」が繰り返される恐れは、現実のものとなりつつある。
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by news-worker | 2006-03-10 19:32 | メディア  

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