誘拐報道協定と情報開示

 少し時間が経ってしまったが、「踊る新聞屋-。」さんからエントリー「報道協定巡り、県警に抗議文~仙台の誘拐事件」のTBをいただいた。1月に仙台市で起きた新生児連れ去り事件の際の報道協定にからんで、解決後、報道機関側が宮城県警に抗議文を出していたという。抗議文のことは知らなかったが、わたしの以前のエントリー(ココココ)も引用していただいているので、思うところを少し書きたい。「だからどうだ」という明確な結論があるわけではないのだが。
 まず、「踊る新聞屋-。」さんのエントリーの一部をご紹介する。

(引用開始)
事件解決後の1月11日、宮城県の報道責任者会というのが、県警本部長に抗議文を提出している。その内容を要約すると、
 <情報を逐一速やかに提供すべきところ、一部事実は秘匿されたうえ、公表された情報も極めて不十分かつ迅速さに欠けていた。解放の架電や容疑者の任意同行など><定期的な会見を開くよう要請していたにもかかわらず、正式会見は一回にとどまった>ということだった。
 前記、ニュース・ワーカーさんが指摘されておられるが、<報道の大原則である「自由な取材」「自由な報道」を制限するものだから、協定締結は慎重の上にも慎重を期さなければならない。締結に際しては捜査情報の全面開示が前提となる>はずだが、こういう約束というのは、簡単に反故にされてしまうようだ。
 誘拐事件では人名保護最優先だから見過ごしされがちだけど、これは重要な問題だ。
 警察に限らず、行政機関というのは常に情報を隠したがる。
 本能みたいなものだ。錦の御旗がプライバシーであったり被害者の要請であったりしてしばしば目くらましされてしまうのだが、唯々諾々と従っていれば、新聞は官報になってしまう。
 だから…という結論はないのだけど、どう思いますでしょうか。
(引用終わり)




 記者駆け出し時代の記憶をたどると、誘拐報道協定で、かつてはこういうこと、つまり警察が一部の情報を伏せたり、情報提供が遅かったりは「よくあった」とは言わないまでも、皆無ではなかったのではなかろうか、と思う。しかし、報道側にもフライングがこれもまた皆無ではなかったように思う。報道協定は報道側が一切の報道はもちろんのこと、取材も自粛する。その前提となるのは、捜査情報が速やかに包み隠さず提供されることだ。逆に言えば、報道側が特ダネの誘惑に勝てず密かに取材をしていたりすると、協定は成り立たないし、警察に情報を伏せる口実を与えることになる。
 明確なフライングというわけではないが、公になっているエピソードとしては、読売新聞大阪社会部のノンフィクション「誘拐報道」(1981年、新潮社刊。当時の読売大阪社会部長は故黒田清氏)には、兵庫県で発生した児童誘拐事件をめぐる協定解除前後のスレスレの取材状況の描写がある。どうやら犯人が逮捕されたようだが、被害者の安否が分からない。警察からもはっきりした情報提供がない。もしも、被害者保護なら協定は解除になる。その後は、被害者の無事な姿を取材できるかどうかが最大のポイント。記者の1人が機転を利かせ、立ち入りが制限されていない近畿管区警察局に飛び込み、被害者保護を知らせる警察無線を聞いた。ただちにカメラマンが乗ったヘリが離陸し、現場の臨場感あふれる写真をものにした。しかし、紙面に掲載された撮影時間が、協定解除の時間より前だったために、読売新聞は兵庫県警の記者クラブを除名になる、というエピソードだ(本のあとがきで黒田氏は、協定解除より前の取材だったとしても、捜査には何ら支障がなかったことを強調している。わたしも除名処分は硬直にすぎるとの感想を持った)。
 この「誘拐報道」は映画化もされたのだが、その中にはもっと分かりやすいシーンがあったと記憶している。協定続行中の警察側のレクチャーの中で、記者の1人が「警察は情報を全部は出していないのではないか!」と詰め寄る。それに対し警察側が「犯人が現金授受の場所に指定してきた喫茶店周辺の駐車車両を調べたところ、○○新聞社のものでした。取材自粛はどうなっているんですか!」と言い返すシーンだ。
 このシーンが実話に基づくのかどうかは知らない。しかし、この種の話がまったくなかったわけではないと思う。その後、警察庁と新聞、放送各社は誘拐報道協定の精神を尊重することを何度か確認しているはずだ。そういう話は聞いたことがある。
 わたし自身は一度、誘拐報道協定の現場を経験したことがあるが、そのケースでは特に問題はなかった。警察はさんざんに犯人に振り回されたのだが、そういうある種の〝失態ぶり〟も含めて情報は開示された。
 しかし、報道側が事件発生に気付いていないのをいいことに、身代金目的誘拐事件(被害者は成人男性だったが)ながら警察が1週間も潜行捜査を続け、犯人グループを全員逮捕してからようやく発表したケースも経験したことがある。「権力を監視する」と言いながら、相当に大掛かりな捜査が進行していることに、どの記者も気付かなかった。確か毎日新聞が最初に書いたのだが、それも捜査が最終盤になってからだった。もう15年以上も前のことだが、今でも恥ずかしい。

 さて、仙台のケースに話を戻す。状況がよく分からないし、「だからどうだ」という結論もないのだが、あえて言えば「隠してもばれる、ばれれば世論にたたかれる」「天網恢恢粗にして漏らさず」ということを報道側が警察にアピールできるかどうかの問題ではないか。それは、普段の警察取材のありようが問われるということだ。「監視」なのか「癒着」なのか。「警察に都合の悪いことでもどんどん書く」のか「警察に都合の悪いことは遠慮して、良好な関係の維持に努める」のか、と言ってもいいと思う。

 前記の読売大阪の「誘拐報道」は新潮文庫にも収録されたが、Amazonを検索したところ現在は新品では入手不可能のようだ。新聞やメディアを取り巻く環境は現在とはまったく異なる時代のことだが、「新聞記者」という職業の本質を考える上では、今でもその価値を失っていない名著だと思う。
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by news-worker | 2006-03-11 00:16 | メディア  

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