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沖縄で歩き考えた「戦争と平和」

沖縄で歩き考えた「戦争と平和」_c0070855_1185118.jpg 13日(土)からの3日間を沖縄で過ごした。きょう15日は、沖縄が米軍政下から日本に復帰して34年目の日に当たる。今、沖縄は5月1日に日米両政府が合意した「在日米軍再編」の最終報告によって、永久的な「軍事要塞」にされようとしている。この日の朝刊で、沖縄に2つある県紙の沖縄タイムス、琉球新報とも、1面トップで「再編混迷 痛みなお」(沖縄タイムス)、「『基地なき島』遠く」(琉球新報)と、34年前に望んだ「基地なし本土並み」の復帰とは程遠い実情を、怒りとともに大きく報じていた。
 以前のエントリーで触れた通り、今回の沖縄行きは新聞労連などメディア関連の産別組合でつくる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」と「沖縄県マスコミ労組協議会(マスコミ労協)」の連帯行動として企画された。13日はMIC参加者は米軍普天間飛行場と嘉手納基地を視察し、14日は朝から「5・15平和行進」に合流。地元メディアの労組員とともに16キロを歩いた。MIC側は新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連の4団体から計29人が参加した。



 宜野湾市に「嘉数(かかず)高台」という小高い丘がある。頂上に展望台があって、普天間飛行場の全景を望むことができる(写真)。しかし、市販の沖縄の観光ガイドブックにはまず出てこない。ここから飛行場を臨めば、住宅街に取り囲まれている様子がよく分かる。ラムズフェルド米国防長官がこの地を視察した折、「世界で一番危険な基地だ」と嘆息したという。
沖縄で歩き考えた「戦争と平和」_c0070855_1234144.jpg 案内してくれた沖縄タイムスの記者は「危険だということと、宜野湾市の真ん中に広大な基地があるために、市政や住民生活が様々な束縛を受けている」と指摘した。基地内はもちろん立ち入り禁止。例えば基地の反対側で火事が起きたら、消防隊はぐるっと迂回しなければならない。このため、市内に消防署が4カ所も置かれている。
 基地用地の地代として年間約60億円が地主に支払われている。基地で働く地元の人たちは約200人。「そうした現実は確かにあります。しかし、一方で基地がなければ、その土地を活用して得られる経済効果もあるはずなのです」。そう案内の記者は、「基地経済」をめぐる疑問を指摘した。
 普天間飛行場は米海兵隊のヘリコプター部隊の拠点として運用されている。2年前の2004年8月13日、米軍ヘリが基地に隣接する沖縄国際大のキャンパス内に墜落し炎上。機体は大学の建物を直撃し、ローターが壁面をえぐった。機体から飛び散った破片は周囲のアパートやマンションを直撃。しかし、奇跡的に人的被害はなかった。奇跡としか呼びようがなかった。後日、墜落の原因は整備ミスと判明。イラク戦争に伴い、ヘリ部隊もイラクに派遣されており、整備員の勤務ローテーションが過密になっていた。
 この事故では、基地の外の民間施設内であるにもかかわらず、沖縄県警は米軍に捜査を阻まれた。事故機の機体に触れることもできなかった。大学構内に〝突入〟した地元テレビ局の記者とカメラマンは、警備の米兵にテープを没収されそうになった。機転をきかせた記者がカメラマンにテープを持たせて脱出させた。そのときのテープを見たことがある。迷彩服姿の米兵が、ガラスが割れ、騒然とした建物内を取材している2人を見つけて呼び止める。「ヘイ! お前たちをここから出さないぞ!」。
 この事故で米軍が見せた対応は明らかに、日米地位協定を逸脱していた。しかし小泉政権は強硬に抗議することもなく、いつの間にかウヤムヤにしてしまった。沖縄に日本政府の主権はないも同然であることを示した事故だった。
 政府だけではない。県外のメディアの扱いも消極的だった。「人的被害がない=たいしたことない」「トップニュースにするのは大げさだ」。そんな判断だったのだろう。

 嘉数高台は、1945年4月に始まった沖縄戦の最初の激戦地になった場所でもある。当時、日本軍は那覇の首里に地下壕を張り巡らして司令部を置いた(新聞の印刷機も地下壕に運び込まれ、地下壕から発行された)。米軍の上陸地から首里までにいくつか高台があり、日本軍はそこに何重にも強固な防御陣地を敷いていた。その最初の高台陣地が嘉数だったという。
 よく知られているように、米軍は沖縄半島中部に上陸したが、日本軍は水際撃退作戦を取らず、米軍を無血のまま上陸させた。地上戦に持ち込み、温存していた火力を集中的に浴びせて大量の出血を強いる作戦だったとされる。つまりは、沖縄は本土決戦までの時間稼ぎの捨石でしかなかった。
 おびただしい犠牲を出しながら、しかし物量に勝る米軍はじわじわと進攻する。首里の陥落も間近になって、日本軍は首里を捨てて南部に司令部を移す。このことが、軍と行動をともにしていた住民の〝集団自決〟などの悲劇を招いたとされる。首里陥落で日本軍が降伏し、戦闘が終結していれば、それ以上、住民の命が奪われることもなかったはずだ。「軍隊は決して住民を守らない」。それが沖縄戦の教訓だ。
沖縄で歩き考えた「戦争と平和」_c0070855_1252550.jpg 嘉数の陣地を守っていたのは、京都出身の将兵の部隊だったという。展望台のわきには、慰霊のために京都府民が立てた「京都の塔」がある。碑文には、戦死した将兵だけでなく、犠牲になった住民をも悼む文言が記されている(写真)。沖縄には南部を中心に、郷里出身の戦死将兵を悼む日本各地の慰霊碑がたくさんあるが、沖縄の住民の犠牲に触れているのはごくわずかだという。

 嘉手納基地は4000メートル級の滑走路2本を備えた米空軍の世界戦略上の拠点。ベトナム戦争当時、エンジン8基を持つ巨大爆撃機B52が連日、北ベトナムの爆撃に出撃して行った。現在は米空軍のF15戦闘機部隊や米海軍のP3C哨戒機部隊などが展開している。
 戦闘機が出す音はすさまじい。「ゴオー」などというものではない。「バリバリバリ」と聞こえる。空気が振動する。頭上で特大の雷が何回も立て続けに鳴っているようだ。青森に在勤した当時、米空軍の三沢基地によく取材に行った。東西冷戦下で、極東ソ連軍をにらんで米軍が新鋭のF16戦闘機を配備したころだった。あまりの騒音に、本当に驚いた。しかし三沢の米軍司令官は記者会見で「F16は静かな飛行機である。なぜならエンジンは1基だけだからだ」と大真面目な顔で力説していた。F15のエンジンは2基だ。
沖縄で歩き考えた「戦争と平和」_c0070855_1265347.jpg 離着陸コースに近い北谷(ちゃたん)町砂辺地区には、住宅地の街並みの中にポツリポツリと〝緑地〟が点在している。あまりの騒音に、住み慣れた土地を離れて移転していく住民も少なくない。するとすかさず防衛施設庁がその土地を買い上げ、樹木を植えてしまう。「人間の代わりに、うるさいことを言わない植物を置いていくんですよ」と、地元紙労組の方は話していた。
 14日の平和行進では、この砂辺地区の公園で休憩時間があり、地区の方々による麦茶とぜんざいの差し入れがあった。沖縄戦では、米軍はこの辺り一帯に上陸した。ミニ集会では、砂辺地区の自治会長が「沖縄はまだ返還されていない。わたしたちが望んだ『基地なし本土並み』が実現されていない」「普天間のヘリ墜落事故の際に、日本政府は米軍の横暴の前に主権を放棄した。日本政府は、本当に沖縄の政府なのか」と訴えた。

 平和行進は3ルートに分かれて、12日から始まっていた。ことしで29回目になる。県内の労働組合を中心とする沖縄平和運動センターが運営・実施母体となっている。14日は最終日。マスコミ労協は、嘉手納町役場から宜野湾市海浜公園まで約16キロの「西コース」に入っており、わたしたちMIC組もこの隊列に加わった。「西コース」部隊は総勢約1000人。
 午前9時半にスタート。行けども行けども、左手に嘉手納基地の金網フェンスが延々と続く。参加者は「基地のない沖縄を」の揃いのハチマキを締め、それぞれの労働組合の旗やのぼりを手に、「日米軍事同盟強化ハンターイ!」「憲法改悪を許さないぞー!」「辺野古の新基地建設ハンターイ!」「普天間基地を返還せよー!」などなど、シュプレヒコールをあげながら歩いていく。
沖縄で歩き考えた「戦争と平和」_c0070855_1295187.jpg 砂辺地区での休憩を経て、嘉手納基地のゲート前では、全員が行進の足を止めてフェンスの中を向き、「米軍は出て行け!」「沖縄に基地はいらないぞ!」と盛大にシュプレヒコールをあげた(写真)。
 北谷町役場で弁当の昼食休憩の後、行進の隊列は沖縄本島の南北の幹線道路である国道58号を南下。途中、右翼団体の街宣車が大音量でアジ演説をがなり立てながら、行進の隊列を追い越していく。ゴールに到着したのは午後4時。出発から6時間半だった。

 宜野湾市海浜公園の野外劇場では、平和行進3コースの参加者が一堂に揃い、打ち上げの「5・15平和とくらしを守る県民大会」が開催された。主催者発表では、集会参加者は3500人。3日間の行進参加者は延べ7000人、うち沖縄県外からの参加は1500人。
 県民大会では何人かがあいさつに立った。メモを取っていたわけではないが、印象に残った発言をひとつだけ記しておきたい。
 普天間飛行場の代替施設建設地を、日米両政府は名護市辺野古地区の米海兵隊キャンプ・シュワブ沿岸とすることで最終的に合意した。その辺野古地区で、旧沖合案を許すまじと、体を張って抵抗運動を続けてきた「ヘリ基地反対協議会」代表委員の安次富浩さんは「国防は国(政府)の専管事項」という言い方を取り上げた。
 この言葉は、昨年来の在日米軍再編論議の中で、関係地の首長らが日米合意に反対の意思を表明していることに対し、政府高官がたびたび口にしている。しかし、辺野古沿岸案をめぐり、稲嶺恵一・沖縄県知事までもがこの言葉を持ち出し、事実上の〝容認〟を表明してしまった。
 安次富さんは言う。「『国防は国の専管事項』と口にする者は、歴史に学んでいない。国防を国に任せてしまったからこそ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた侵略戦争が引き起こされ、また沖縄戦の辛苦を沖縄の住民が体験しなければならなくなってしまったのではないのか。今こそ、国防を民衆の手に取り戻そう。民衆が立ち上がらなければならない」。

 大会の最後に採択された「大会宣言」は、こう訴えている(琉球新報掲載の「要旨」より抜粋)。「今こそ、戦前戦後を通じて一貫して沖縄を食い物にし、また新たな差別政策を強要する日本政府を満身の怒りで糾弾しよう。沖縄と同様、米軍再編による新たな基地負担を強要され、大きな反対運動が沸き上がっている東京横田、神奈川座間・厚木・横須賀、山口県岩国をはじめとする全国の仲間と連帯して全国規模の一大闘争を創りだしていこう」。

 だれだって、自分の生活している土地に基地ができるのは嫌だ。そのことに日本各地で多くの人が気付き始めている。今回の在日米軍再編とはそういうことだ。そこで「でも国防は国の専管事項だから…」と、いわば「仕方がない」と受けいれてしまうのか。あるいは沖縄の基地問題で言えば、「負担は軽くするから、引き続き沖縄にお願いする」と日本(ヤマト)と日本人が言ってしまっていいのか。そこで思考を止めてしまったら、共謀罪も止められないし、憲法だって改悪を許してしまうだろう。ひいては戦争をだれも止められないだろう。
 そうではないはずだ。自分がイヤなものはだれだってイヤなのだ。そのことに皆が気付いたときに、第3の道の模索を始めることができるはずだ。それは「基地のない沖縄」であり「基地のない日本」だ。

 主権者たる国民の意思に従わない政府は、政府ではない。日本政府は、本当に沖縄の〝政府〟なのか。まさしく沖縄では憲法が実現されていない。この状態を沖縄への「差別」と言わずして何と言うのか。そして、そういう政府の首相が、いまだに高い支持率を誇っていることを、わたしたちはどう考えればいいのか。
 答えは明らかだ。沖縄と日本の「民」同士の連帯が必要だ。その上に立って、憲法を守らない為政者は、主権者である国民が排除していかなければならない。そのことに奉仕するはずの権力を監視する者の役割と責任は大きい。メディアが負っている「権力の監視」機能とはそういうことだ。そのことを痛感した沖縄での3日間だった。
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by news-worker | 2006-05-16 01:32 | 平和・憲法~沖縄  

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