派遣労働をめぐる争議で敗訴~司法は現状追認しかできないのか

 この2年間、支援にかかわってきた派遣労働をめぐる争議の民事訴訟で昨日(29日)、東京高裁の判決があり、一審の東京地裁に続いて原告側の敗訴となった。全国的にみても先駆的なケースなのだが、一、二審連敗ではニュースになるわけもなく一行も報じられていないが、雇用と労働の現場で実際に何が進行しているか、その実態に虚心に向き合おうとしない司法には怒りを覚える。
 原告は加藤園子さん。被告は教科書出版社である「一橋出版」(東京都杉並区)と人材派遣会社「マイスタッフ」(同)。裁判で求めているのは、加藤さんを一橋出版の教科書編集の現場に戻すことだ。争議は出版労連が中心になって取り組み、わたしが支援共闘会議の議長を務めている。
 加藤さんはマイスタッフから一橋出版に派遣され、高校の家庭科教科書と副教材の作成を2年間にわたって一人で担当。教科書が検定を通過した後の03年5月、本人に雇用継続の意思があったにもかかわらず、一橋出版から雇い止めが通告された。これだけなら「どこがおかしいの」と思われるかもしれない。しかし、加藤さんが経験したことの一つひとつが、実は「派遣」を隠れ蓑として、一橋出版が違法な労働者使い捨て策をとっていたことを示している。



 まず一橋出版とマイスタッフの関係。マイスタッフの代表取締役である金子文蔵氏は一橋出版のオーナー(2000年7月まで代表取締役、現在は相談役)であり、複数の人間が両社の役員を兼任している。一橋出版で働いている派遣社員は全員、マイスタッフから派遣されているいた。ただし、一橋出版以外にも、マイスタッフの派遣先はある。
 加藤さんの採用に際しては、一橋出版の役員による事前面接(派遣先による事前面接は違法)が行われている。業務の面では、教科書の執筆者との交渉から、文部科学省との検定をめぐる折衝にいたるまで、一人ですべて担当した。出張もあったし、繁忙時には会社に泊まりこむこともあった。そうした労務上の指示は、マイスタッフからではなく一橋出版から受けていた。
 加藤さんの賃金を決めていたのもマイスタッフではなく一橋出版だ。一橋出版からマイスタッフに支払われていた派遣料は、加藤さんへの支払い賃金に5%をプラスした分だけだった。5%を消費税相当分とするなら、マイスタッフはもうけを取っていなかったことになる。これは異常な取引形態だ。
 これらのことを総合的に見るならば、加藤さんは実態としては一橋出版の正社員、直接雇用に限りなく近かった、と言うべきだ。人件費を抑え(派遣社員に昇給はない加藤さんに昇給はなかった)、いつでも切る(解雇する)ことができる〝手軽さ〟のために、「派遣社員」として偽装されていたとみるべきなのだ。
 しかし、司法判断は違った。原告側主張と会社側主張が食い違う争点に対しては、すべて会社側主張を丸呑みにした。
例えば「事前面接」だ。昨年7月の東京地裁判決は、「実質的に派遣先が派遣を受ける者を決定したとの疑念が生じ、あるいはそのように評価されることは否めない」とまで言及しておきながら、「両社の役員を兼任しているから派遣元のマイスタッフの役員という立場で面接をした」と認定した。冗談ではない。加藤さんは面接当時、明確に一橋出版の役員面接を受けてもらうと告げられていた。「兼任うんぬん」はすべて、裁判になってから会社が言い出した後付けの理屈なのだ。
 昨日の高裁判決になると、もっとひどい事実認定になる。加藤さんが受けた2次面接の通知には「今回は会長、社長ともご面談いただきます」との文言が明記されていた。会長職があるのは一橋出版だけで、マイスタッフにはない。面接を実施する側の認識、つまり面接の主体はマイスタッフではなく一橋出版であるとの意思がここに明確に表れている。裁判段階になって、いかに言い訳を並べようが、この〝物証〟の一つをもって、会社側主張は崩壊するはずだ。
 ところが高裁判決は、この記載を「マイスタッフにおける事務手続き上の誤記というべきもの」と認定してしまった。面接当時の客観的な〝物証〟であるはずの記録が「誤記」で片付けられてしまった。では、裁判上の証拠とはいったい何なのか、ということになる。証拠はいらない、ということなのか。
 実際に、地裁判決も高裁判決も会社側主張だけで組み立てられている。原告側の反論に対しては、理由を示さずに「採用できない」と片付けるか、そもそも言及がない。
 裁判で負けるにしても、負け方というものがある。判決によって納得させられれば、紛争は終わる。しかし、これでは、なぜ負けなのかすら分からない。裁判官が言っているのは、要するに「『派遣』で働くことを自分で認めていたのだから、雇い止めになっても当然ではないか」ということだけだ。本当に「派遣社員」に相応しい適法な働き方だったかどうかは問わない、と言わんばかりだ。負けた人間を納得させられないのでは、司法は責任を果たしていない。

 弁護団の分析だが、現在の司法判断は、正社員に対しては解雇権の乱用から保護しようとする流れが再び強まっているのに対し、契約社員や派遣社員など非正規雇用の労働者に対しては、逆に経営側の裁量権を大きく認め、労働者切り捨てを容認する流れにある。今回の加藤園子さんの争議も、明らかに派遣労働者の切り捨て判断だ。これは司法による差別と言ってもいいのではないか。
 では、明白な客観証拠を「誤記」とねじ曲げてまで、なぜ裁判官たちは会社側を勝たせたがるのか。その答えは意外に簡単だと思う。影響があまりにも大きいからだ。
 「派遣社員」の違法、脱法的な実態は別に珍しいことではない。そもそも常用雇用を正社員から非正規労働者に置き換えていくことは、本来の立法趣旨を逸脱している。しかし、加藤さんのように「おかしいことはおかしい」と立ち上がる人は圧倒的に少ない。なぜなら、「おかしい」と声を上げただけで、次の契約更新期に「雇い止め」となりかねないからだ。結果として、不満を抱えながらも「仕事がないよりはまし」となる。
 ここでもし、司法が「派遣労働の現状に問題がある」との判断を示したらどうなるだろうか。救済を求める動きは一気に広がるだろう。それは企業経営者たちには、労働市場秩序の崩壊と映るに違いない。財界、場合によっては政界からも司法への懐疑と批判が沸き起こることが容易に予想される。多分、「司法は日本経済の活力をそぎ、国際競争力を落としても構わないと言うのか!」くらいの批判は出る。裁判官としては、そんな大それたことは考えていない。そんな恐ろしい批判を浴びるくらいだったら、多少、労働組合が騒ぐくらいで済む現状追認がいい、ということではなかろうか。

 今までは、取材者として司法を見てきたことが多かったが、この2年間は労働組合の専従役員として、当事者の側に立って司法を見てきた。率直に言って危機的状況にあると感じている。「人権」に対して、裁判官の感度が極めて鈍くなってきているのではないだろうか。わたしたちの社会が「格差社会」「監視社会」「戦争社会」へと進む中で、司法が人権を守らなければ社会不安が増す一方だ。社会不安が高まったところで戦争は起こることは、歴史が証明している。

 加藤園子さんの争議では、支援共闘会議は最高裁に進むことを確認している。それは「この問題はわたし一人だけの問題ではない」との加藤さんの強い意向による。しかし、正直に言ってもはや司法に過大な期待は抱いていない。法律論以上に、社会的運動が重要だと考えている。最高裁判事たちをして、現実に目を向けざるを得ないような世論の高まりが必要だ。その運動は、わたしたち労働組合がつくっていくしかない。

 エントリーの冒頭「一、二審連敗ではニュースになるわけもなく一行も報じられていない」と書いたが、実はこれだけ原告側が証拠をそろえても「一、二審連敗」というところにこそ、ニュース性があるという見方もできると思う。

追記 8月3日未明
 事実関係で不正確な記述が2カ所あったので訂正しました。
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by news-worker | 2006-06-30 10:05 | 格差社会  

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