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昭和天皇メモ報道の危うさ

 少し前の話になってしまうが、日経新聞がスクープし、各紙が大きな扱いで後追いした昭和天皇の靖国発言メモ問題。報道の論調にずっと違和感を覚えていた。昭和天皇の戦争責任と正面から向き合わずに来ているメディアの皇室報道の本質と直結した問題だと思ったのだが、なかなかその違和感をうまく表現できずにいた。簡潔に問題を突いた一文があるので紹介する。「憲法メディアフォーラム」の「今週のひと言」。
今週のひと言【昭和天皇論の危うさ】(7月28日更新)
 靖国神社のA級戦犯合祀に、昭和天皇が不快感を示していたとするメモを、日経新聞がスクープした。反響は大きかったが、その後の議論には危うさを感じる。全国紙の社説で見てみよう。
 「富田長官メモ 首相参拝は影響されない」とした産経は、論理が千々に破綻しており脇に置く。相対的に最も冷静だったのは読売で、「A級戦犯合祀 靖国参拝をやめた昭和天皇の『心』」とした。朝日は「A級戦犯合祀 昭和天皇の重い言葉」と題し、不参拝は国民統合の象徴として賢明だったとの論。毎日の見出し「昭和天皇メモ A級戦犯合祀は不適切だった」は、文面とともに相当に誤解を招きやすい。日経の「昭和天皇の思いを大事にしたい」は一番露骨で、文中でも「そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」と主張した。
 共通する問題は主に二点だ。第一は、昭和天皇自身の戦争責任を等閑に付していること。第二は、天皇が言うのだから首相は参拝すべきでない、という思いが透けて見えることだ。そういう姿勢は、国民主権の日本国憲法から最も遠いものだ。昭和天皇が「参拝すべきだ」と言えば、今度はそちらへ振れるというのだろうか。




 今回の報道が大きな扱いとなったのは、A級戦犯合祀を知りながら参拝を続け、ことしこそは8月15日に参拝を強行するのではないかと指摘されている小泉純一郎首相の存在があるからだ。首相の靖国参拝は憲法が定める「政教分離」に明確に違反する。なぜなら、小泉首相自身が5年前の自民党総裁選で政治公約に掲げていた。「個人の内心の自由」を強調する首相の主張は見苦しく、頭の悪さを露呈しているとすら言える。ことは小泉首相が首相であるがゆえの政治問題だ。その問題に「昭和天皇うんぬん」を絡めるのは、天皇の政治利用そのものだ。ましてや「昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」と主張するなどは、靖国問題の重要な論点に、かつて一方的に「日本人」とされた旧植民地出身の戦没者が、遺族の了解なしに合祀されていることが含まれていることに何の洞察も配慮もない〝妄言〟ではないか。
 「昭和天皇は平和主義者だった」ということがよく言われるが、仮にそうだったとしても戦争責任とはまったく別のことだ。1931年の満州事変以降の戦火の拡大、1941年の太平洋戦争開戦を止めうる立場に天皇はいた。
 1945年8月15日以後の数年間の現代史は、いまだ「歴史」と呼ぶ領域ではなく、直接今日にかかわる「政治」の問題だと思う。歴史学者に委ねるのではなく、ジャーナリズムが取り上げるべき対象だ。とりわけ昭和天皇が戦犯指定から免れた経緯や東京裁判の推移、GHQと日本側のやり取りを検証し、あらためて事実関係の発掘に努め社会に伝えていくことが必要だと思う。
 昭和天皇の戦争責任については、先に紹介した「憲法メディアフォーラム」に掲載されている別の一文「放送ウオッチ・報道ステーション『昭和天皇が戦争放棄を表明』」も紹介しておきたい。「どのメディアも天皇発言重視では日本はいまだに『天皇を中心とした神の国』(by森喜朗元首相)を脱却できないのではないだろうか」との、筆者の岩崎貞明さん(放送レポート編集長)の指摘は同感だ。
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by news-worker | 2006-07-29 05:05 | 平和・憲法  

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