もはや日本は〝加害者〟へ?~MIC広島フォーラムから

 1週間以上あいてしまったが、今月5日に開かれたMIC(日本マスコミ文化情報労組会議)の広島フォーラムの内容をご紹介しておきたい。
 フォーラムは広島と長崎で1年おきに、地元のマスコミ労組共闘会議と共催で開いている。原水禁運動の分裂をきっかけに始まったと伝えられているが、いつからどんな経緯で続いているのかは定かではない。「核のない世界を」「なくせ核兵器」が各年共通の統一テーマになっている。
 今年は広島での開催。在日米軍再編の焦点になっている岩国基地が近い。「核兵器」からは少し離れるが、テーマは「日米軍事同盟と危機に立つ平和憲法」と大きく構えた。沖縄の基地問題をどう考えるかも、ぜひ盛り込みたかった。
 進行は大きく3部構成とした。まず地元の民放局RCCが昨年の8月6日に放映したドキュメンタリー「絆~原爆小頭症患者の60年」を上映(内容についてはこちら。見ごたえのある力作だった)。次いで、在日米軍再編について基調講演と岩国からの報告、最後にパネル・ディスカッションを行った。
 基調講演はドキュメンタリー映画「Marines Go Home」の監督の藤本幸久さん、岩国からの報告は中国新聞の岩国総局記者、パネル・ディスカッションはパネラーに藤本さんと広島修道大の野村浩也教授(社会学)、山口大の立山紘毅教授(憲法)の3人を迎え、コーディネーターはわたしが務めた。
 話は行きつ戻りつ多岐にわたったのだが、非常に刺激的な議論だった。戦争には加害と被害の両面があるとすれば、日本は今や既に「加害」の側に立っているのではないか-。フォーラムを終えてみての率直な気持ちだ。
 講師、パネラーの方々の話を、わたしなりに要約してご紹介したい。




▽藤本幸久さんの基調講演要旨(かなり長い)
 ずっとフリーでやってきた。新聞やテレビの人とも一緒に仕事をしてきた。そこから見えることをお話したい。
 10数年前、広島に来た。広島城に司令部があった旧陸軍の第5師団は日清、日露戦争から「大東亜戦争」まで、常に最前線に出た部隊。マレー半島に送られた元第5師団の兵士が当時、宮島に住んでいた。彼の話を聞きたかった。
 訪ねて行くと彼は「とうとう来たな」と言って、すぐに話し始めた。「人間として、日本人として恥を話さねばならない」と。
 彼の話は後ほど、当時のフィルムを見てもらう。ここで、僕自身の恥を話す。人間として、表現に携わる人間としての恥だ。
 13年前から北海道の新得を拠点にしている。2年前、イラクへの自衛隊の第一陣が北海道から出た。当時、韓国人の強制連行犠牲者の遺骨を収集している学生たちを取材していた。イラクへ行く自衛隊も撮りたいと思ったが、入れてくれない。記者クラブに入ってない人間は入れないということだった。
 当時、UHB(北海道文化放送)で番組をつくっていた。プロデューサーと相談して、UHBの取材者として自衛隊に申請し、撮影許可を得た。中に入ると、身内ばかりからか、言いたい放題の様子だった。ゲストの中川昭一代議士は「皆さんは一番槍、存分に働いてください。政府も企業もついて行く」とか。「復興」の言葉もなかった。びっくりしたのは、幹事社の質問が2つで3分で終わったこと。隊員の代表に①今どういう気持ちか②家族はどう思っているか-。こんな取材でいいのか。メディアの取材がルーティン化していると思った。
 翌日、自衛隊の師団広報からUHBに電話があった。外部の人間を記者として入れたのは怪しからん、と。釈明にプロデューサーが呼びつけられた。1週間後には、北部方面総監部が報道部長へ申し入れてきた。発端は十勝毎日新聞の記事。「壮行会に、十勝で反対団体の共同代表になっている藤本がいた」と書いた。実際は、番組を撮っていたのに。朝日新聞の記者はていねいにも、自衛隊の師団広報に「反対派が潜り込んでいる」と教えていた。取材を申請していたのに。
 北部方面総監と報道部長は、これからはどんなことがあっても契約の人間は入れないことで合意した、とプロデューサーから説明を受けた。それだけでなく、撮ったものを使おうとすると「UHBのものだから出せない」と言われた。弁護士と相談して、コピーはもらったが、中川昭一の前までだった。
 それから1カ月ぐらいして、自衛隊の番組、新人アナの体験入隊記が放送された。
僕は番組をつくっていたのでUHBともめたくなかった。作っている番組を出すことを優先させて、闘わなかった。悪いものを残した。
 同じころ、新潟に行った。万景峰号入港で大もめのころ。不等の500メートル手前から立ち入り規制がある。撮れるものは決まっていて、自由に取材できない。幹事社のNHKは「決まったことだから守るしかない」と。守っていて本当にいいのか? 不思議だった。
 ルーティンワークに多くのジャーナリストが追いまくられている。どういうことを伝えるのか、どういう意味があるのか、自覚されていない。
 Marines Go Homeの撮影で辺野古で住民たちのところにいた。いろんな記者に会った。沖縄のマスコミは毎日、取材に来る。毎日、何があったか伝えられている。しかし全国紙やテレビは「送っても取り上げてもらえない」と。辺野古や米軍のことは、沖縄のこととしてしか報道させない、どこかでそういう力が働いているのではないか。
 (ここから約20分間、第5師団の元日本兵の取材フィルムを上映。1991年撮影、三宅元次郎さん、79歳。「11連隊に昭和15年8月に入った。二等兵。上官はみな天皇につながっているから口ごたえできない。軍隊とは非人間的社会。人間の住むところではない」「1941年の12月8日はタイの浜辺に上陸していた。そこで宣戦布告を知った」「(マレーでは)中国系の住民を夜中に襲い、怪しい者を検束して監獄に送った」「1週間後に命令が出て、車で監獄に行った。中国人が70人くらい乗った。車は6台だったから全部で400人余。クアラルンプルを出て森へ向かった。指揮官の将校と兵隊が60人」「指揮官が言った。『今から命令する』『この中国人を殺す』。そう言われても、敵兵ではない。彼らに悪いことをされたわけではない。人間だから殺意が起きない。殺意を起こすために将校は何と言ったか。『ただ今より、大元帥陛下の命によりこれを殺す』」「まず2人の将校が軍刀で首を落とした。血柱がシューと音を立てて2-3メートル噴き上がった。殺して埋めた。森は血なまぐさくて、いられなかった。半分ぐらいは死んでない人がいたと思う。生き埋めだった」「そのとき思った。『陛下の命により』という、そういう権利が天皇にあるのだろうか。どう思う?」「新しい憲法が生まれたのは、日本の兵隊が、何百万という人が中国大陸で死に、太平洋で海の藻屑となって、初めて獲得した」「それだけではない。朝鮮、中国、マレーでどれだけの人が死んだか。数え切れない人のおかげで、今の憲法を獲得できた」)

 翌年、三宅さんは亡くなった。僕達への遺言だった気がしてならない。その後、マレーシアでも取材した。マレー半島とシンガポールで中国系の住民を日本軍は10万人くらい殺したというのが定説だ。米軍のファルージャ攻撃とやり方は同じ。生き残った人たちにも何人にも会った。みな背中や胸に刺し傷が5-6カ所ある。突き抜けている。当時は子どもだった人たちだ。政府間の補償は決着したという。しかし個人に謝罪と補償はない。
 (Marines Go Homeの予告編を2分上映)日本人は戦争を知らなくなった。戦争から遠くなった。しかし、演習場のそばに住んでいる人は、いつも戦争や軍隊を意識して暮らしている。辺野古のオバアたちはイラク戦争の半年前から「本気でやるつもりだ」と言っていた。米軍はふだんより激しく演習していた。
 60年前の日本人は軍隊を知っていた。しかし、今は戦争や軍隊のリアリティが失われている。それをもう一度、掘り起こす必要がある。それがマスメディアのやるべきことではないか。リアリティのないまま「自衛隊を自衛軍に」となるのはまずい。
 辺野古で分かったことは、オジイたちも阻止行動の人たちも、本気で止めようとしていることだ。「本気さ」しかないのではないか。仕事、ルーティンだけでいいのか。

▽岩国からの報告(中国新聞・田中美千子記者)
 (米空母艦載機部隊の移転計画と、住民投票、市長選などこれまでの経緯を整理して分かりやすく説明)。現状は、井原市長の反対方針に揺らぎはみられないが、周囲がどんどん揺れ始めている。とくに合併前の旧周辺町村議は、目に見えるところに基地があるわけではなく、「反対だが容認するしかないのでは」となっている。一方、市民も艦載機部隊の移転には反対だが、基地との共存共栄も変わらない。結果として深い議論が生まれない。沖縄をどうするのか、厚木はどうするのか、という話に進まない。
 矛盾は岩国だけではない。中国新聞も広島の8・6報道には力を入れ、市も反核、平和教育には熱心だが、わずか40キロの岩国基地のことはこれまであまり念頭になかった。米軍基地があるということは、いつ核を持ち込まれるか、ということでもある。非核をこれだけ訴えてきたこの街でも、基地の意識は高まっていない。これは全国的な問題でもあると思う。

▽パネル・ディスカッション(1時間半)
 テーマは「在日米軍再編と日米軍事一体化が示すもの」としたが、とくに討論の流れを決めていたわけではない。当日、パネラーの皆さんと顔あわせをして、簡単に打ち合わせをして本番に臨んだ。
 広島修道大の野村浩也さんは、2月に沖縄で開催した新聞労連の全国新研部長会議でも講師をお願いした。わたしはそのときが初対面だったのだが、野村さんの「基地の公平負担論」に少なからず衝撃を受けた。その後もずっと心に残り、今では「日米安保の変質=日米の軍事一体化」を超えるためには、どうしても必要なステップという気がしている。
 しかし、野村さんの主張は沖縄でもまだまだ異端視されているようだ。2月の新研部長会議でもそうだったのだが、復帰第一世代、つまり1972年の沖縄の日本復帰までの運動をになった世代からすれば、自分たちがイヤだからといって他人に押し付けるわけにはいかない、ということになる。野村さんは復帰当時は小学生(1964年生まれ)。ここまで待ったけれども、沖縄は何も変わらない、という思いがある。
 野村さんの発言は後に記すのでお読みいただきたい。
 山口大の立山紘毅さんとは初対面だった。パネラーの中ではいちばん刺激的で、(本人も認めていたが)悲観的だった。胸を突かれる、と言えばいいだろうか。いくつか、ハッとする発言があった。いちばん分かりやすかったのは、先の北朝鮮のミサイル発射実験の騒動をめぐる指摘だ。北朝鮮に対する国連決議で、国連憲章の第7章、すなわち制裁決議にするよう最後までこだわったのが日本だったことの意味だ。立山さんは「これまでの安保論議は、日本が戦争に巻き込まれる、という観点だったが、実はもう、米国以上に日本は好戦的なのではないか。日本が先兵となって米国を戦争に巻き込むようになっていくのではないか」と指摘した。
 立山さんいわく、日本はもう一度、焼け野原になるしかないのではないか。それでも、反省できればマシだという。その時に、もし自分が生き残っていれば「過ちは二度と…」などと書いた碑は建てさせない、という。
 コーディネーターとしては正直、進行に苦労した。しかし、小さく結論をまとめてもあまり意味がなかったと思う。それよりは、わたしたちの社会が、どんな社会なのかを徹底的に論じた方が意義があると考えた。それはひと言で言えば、もはや戦争の「加害者」に回っている、ということだろうか。
 最後のまとめは、藤本さんが最後に繰り返したことだった。それは「本気になること」。辺野古のオジイやオバアに習うならば、本気でメディアを変え、本気で社会の流れを変えること、少なくともそのことに本気で取り組むことだと。

*野村浩也さんの発言
 沖縄のコザ(現沖縄市)で育った。基地があるのが当たり前で、基地被害も当たり前であるかのように育った。それは大きな勘違いだった。1972年までは、沖縄の基地に核兵器があったはず。自分は核兵器のすぐそばで生まれ育った。同じ時代、日本人の多くは核廃絶を「自由に」叫んでいた。基地を考えざるをえなくなった。
 核は米軍基地があったからこそ存在した。第二次大戦後、沖縄が日本から分離された。講和条約後も、選挙を通して選択された道だった。日本国民の一人ひとりが責任を負っている。
 沖縄には人権がない。銃剣で脅して人をどかし、基地が建設された。1955年からはさらに激しくなっていく。同時に、日本の基地が減っていく。それは反対運動をやったからだ。根拠を考えていくと、安保に直結する。基地反対運動が高揚し、自民党政権が倒れ安保体制が倒れるような状況へ向かった。そのころ、海兵隊は日本から沖縄に移り、日本の反対運動は収束した。
 結果として、基地の75%が沖縄に集まった。沖縄の基地はもともと日本にあったものだ。日本から沖縄に移転することに対して、日本ではほとんど反対運動がなかった。そのことも、一人ひとりの日本人が選挙で主権者として(主権を)行使した結果だ。沖縄から基地機能や訓練が移転することには猛烈な反対運動が起きるのに、その逆はなかった。
 子どものころはベトナム戦争が激しかった。朝、B52が飛び立ち、夕方帰ってくる。ベトナムの人たちからは「オキナワは悪魔の島」「悪魔がオキナワから飛び立って来る」と言われた。沖縄人はだれ一人として選択したものではない。暴力的に(基地を)押し付けられた。その被害者の面はあっても、基地の存在を許すことで加害者になっていた。
 基地があるということは、確実に加害者になっていく可能性があるということ。直接、手を下してはいないが、手は汚れている。本来、沖縄で起きてしかるべきことなのか。もともとは日本にあった基地だ。日本人が一人ひとり負担することだったのではないか。自分が加害者であることを見えなくしていたのではないか。日本人が平等に負担すべきだと思っている。
 そのことは逆に、基地をなくす道筋になっていくのではないか。かつて、安保がなくなるかもしれない、というところまで行ったのだ。国民が平等に基地を負担していれば、もう一度、そういう状況が起きるのではないか。少なくとも、真剣に考え始めるのではないか。
 最近、気になるのは「本土のオキナワ化」という呼び方だ。今まで「沖縄のオキナワ化」はあまり問題にされなかったことに、傷つく沖縄人はたくさんいる。
[PR]

by news-worker | 2006-08-14 01:27 | 平和・憲法  

<< 小泉首相がとうとうこの日に靖国参拝 61年目の長崎 >>