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辺見庸氏の罵倒に答えてみたい

 最近、トラックバックを交換させていただくようになったsumiyakistさんから、気の重いご指名をいただいた。まずはsumiyakistさんのエントリー「辺見庸氏の罵倒」をお読みいただきたいが、要するに、共同通信を中途退社した作家の辺見庸さんが、最新刊の中で大手マスコミの記者たちを「正真正銘の、立派な背広を着た糞バエたち」と呼んでいることに対し、「糞バエ」と呼ばれた側の右代表として、同じ共同通信に在籍しているわたしに「弁解のひとつも」述べてみよ、というご趣旨だと理解している。
 まず、わたしは共同通信に在籍する記者の一人ではあるが、共同通信記者として発言することがこのブログの本旨ではない。新聞産業の労働運動の専従役員経験者としてしか、ここでは書かない、書けないことをご理解いただきたい。
 労働運動の立場からは、これまでもいろいろな場、市民集会や座談会などで「新聞の今」「記者の今」について発言してきた。このブログでもいろいろ書き連ねてきた(主として「メディア」のカテゴリー)。それらの中では、辺見さんが指摘している状況、つまり記者たちが記者会見など公の場で権力者に切り込むことをしないことに表れている「大手メディアのジャーナリズムの衰退」自体にはわたしも同意してきた。そして、なぜそうなってしまうのか、についてわたしなりに思うところを発言してきた。しかし「御用組合トップの勝手な言い訳、弁解」としてしか受け取られなかったことも少なくなかった。集会参加者の方が感想を書かれたブログ、あるいは座談会記事、わたしのインタビュー記事の感想が書かれたブログを読んで、切ない気持ちになったことが何度もある。




 冒頭に「気の重い」と書いたのはそういう理由もあるが、最大の理由は「記者の今」を考えて行くと、詰まるところは「では自分はどうなのか」「自分は何の痛痒も感じずに記者をのうのうと続けるのか」という問いに行き着くことだ。実際に辺見さんは共同通信という大手メディアを自らの意思で去っている。そんな有名人でなくても、最近は20代、30代の若手記者が新聞社を中途退職するケースが増えている。これは全国紙、地方紙を問わない。その中で、「権力の監視のためにがんばっている記者もいる」と言ったみたところで、あるいは「だからこそ労働組合が…」と気張って言ってみても、この問いの答えにはならない。
 辺見さんのようにスッパリと退社するわけでもない。何も変わらないようにみえる大手メディアの一角に戻ることしかできないわたしに、同僚記者たちを「糞バエ」と呼ぶことなどできるはずもない。そのわたしに、どんな弁解ができるだろうか。自分も糞バエの一匹と認めるぐらいしかできない。「気の重い」理由はそういうことだ。

 前置きが長くなったが、ご指名だからお受けしようと思う。実は辺見さんの著作は読んでいない。だからあくまでもsumiyakistさんのエントリーの範囲内での弁解ということになる。
 辺見さんの批判は記者個々人に向いているようだが、わたしはちょっと違うと思う。記者たちががんばっている、と言うつもりはない。企業(新聞社であり放送局)の方が先におかしくなり、そこで働く記者たちがおかしくなっているという順番だと思う。
 放送よりも新聞の方が話は分かりやすいので、新聞を例にとる。新聞は今、どんどん読まれなくなっている。特に10代後半から20代にかけての一人暮らし世帯は、自宅で定期購読しなくなっている。彼らが10年後に結婚して家庭を持てば新聞を読んでくれるかと言えば、多分、そうはならない。つまり、紙の新聞は将来性という意味ではかなり先行きが暗いメディアになっている。
 これは「若年層の活字離れ」とはちょっと違う問題ではないかと思う。ましてやジャーナリズム性が弱くなったから読まれなくなったわけでもない。生活習慣の変化とか、そういう要因を総合的に考えていかなければ、本当の理由は分からない。
 新聞社の収益は購読料と広告が2本柱だが、広告の方は既に深刻な状況が表面化している。新聞労連のまとめでは、スポンサー側の買い叩き傾向が顕著だ。広告の出稿量が増えても収入増に結びついていない。単価が下がっているということだ。ネット広告の伸びもあり、広告媒体としての新聞の地位は低下の一方だ。
 以上のことが意味するのは、新聞社には、もはや安定的な収益は望めないということだ。ではどうするか。新しいビジネスモデルが見つからない限りは、まだ体力が残っている今のうちに、リストラをやって合理化して、スリムな経営に努めるしかない。これは新聞社が私企業である以上、当然かもしれない。折りしも、日本の社会経済情勢は新自由主義の真っ只中だ。倒産や経営破たんは「経営努力が足りなかった」のひと言で済まされてしまうご時勢。どこの新聞社でも経営者たちの関心は「いかに我が社が生き残るか」だ。いかに「わが紙の紙面を守るか」ではなくなっている。
 新聞産業のこの10年を振り返ると、リストラ合理化は印刷部門の別会社化など装置部門にいち早く現象として現れた。しかし、今、深刻化しているのは編集部門を含む労務管理面の合理化だと思う。成果主義型の人事・賃金制度が相次いで導入されている。しかし、何が成果として評価されるのかにブレがある。もともと人件費の抑制がホンネだから、減点主義に陥る恐れは常にある。次いで流行するのは裁量労働制だとわたしは予想している。端的に言えば超過勤務手当ての出し惜しみだ。もともと記者職は長時間労働を免れ得ない。
 一方で、IT技術の進展と社会のIT化によって、記者一人当たりがこなさなければならない仕事量(というか作業量)はかつてと比較にならないほど増えている。地方の支社局では、記者はデジカメとパソコン、携帯電話を持って一人で現場に行き、写真を撮って記事を書いて送らなければならない。わたしが記者になった当時の2-3人分の仕事だ。各新聞社ともネットにもニュースを流しているから、以前のように紙面の締め切りに合わせて原稿を送ればいい、という状況ではなくなっている。
 結果として、新聞社の編集現場では何が起きているか。病人が出るほど忙しく(どこの新聞社もメンタルヘルス不全の長期療養者を抱えている)、休みも取れず、何がいい仕事なのか評価にブレがあり、経費の削減をこまごまと要求される中で、職場で自由闊達な議論、とりわけ「新聞は何を書いていないか」「何を書くべきか」をめぐる議論がどんどん減ってきているとわたしは感じている。

 辺見さんが批判した小泉首相の記者会見に話を移したい。「立派な背広を着た糞バエ」たちに、それぞれの所属組織が求めているのは、小泉首相に切り込むことではない。首相が何を言ったかを、そのまま正確に、かつ迅速に伝えさえすれば彼らは組織の中でマイナス評価を受けることはない。小泉首相を追い詰め怒らせても、組織内で積極的な評価を受けるとは限らない。「政府と揉め事を起こすこと」が、今の大手メディア内で積極的に評価されるか、ネガティブに評価されるか分かったものではない。「ジャーナリスト宣言」に至っては「我が社の生き残り」のためのCMでしかない。
 ジャーナリストでありたいと思う記者は、こうした「企業第一主義」「大会社主義」(ともにわたしの呼び方だが)の論理の中で、読者・市民の評価ではなく、所属企業の評価にさらされながら働き続けることに疑問を持たざるを得ない。記者個人が組織の中で踏ん張ったところで、実はどうしようもない。記者の中途退職が相次いでいるのは、そういうことではないかと思う。
 わたしはと言えば、前述の通り「糞バエ」の一匹でしかない。だが、ハエはハエなりに、もっとモノを言っていかなければならない、そのためにあるのが労働組合だと思ってやってきた。その労組にも課題が多いことをこの2年で痛感した。企業とは別個の、社会的存在としての責任と役割をどう取り戻すのか。それが実現できれば、今のメディアの状況も少しは変われるのではないか。それが、今現在のわたしのかすかな希望となっている。

 なぜ今の新聞記者はダメなのかをめぐっては、色々な方が色々な観点から論じている。よく耳にすることの一つは「新聞社の給料が高すぎる」ということ。給料が高いから目線が高くなってしまう、というわけだ。完全に同意するわけではないが、否定もできない。
 また、最近とくに顕著になってきたこととして、大手紙と地方紙の区分化(ほかにしっくりくる言い方を思いつかないのだが)がある。権力の監視、あるいは権力との対峙という点で、今や地方紙の方が明確にその役割を意識し、自認し、具体的な取材・報道に乗り出し始めたと感じている。大手紙と地方紙の違いの要因は多々あると思うが、ひとつは規模の違いから来る風通しのよさではないか。地方紙は記者全員の顔が見える中で、日々の紙面を作ることができるメリットがある。もはや新聞は、大手紙と地方紙とを明確に区別して、あるいは個々の題号の違いを意識して論じるべきだと思う。
 言わずもがなだが「新聞記者=ジャーナリスト」ではない。以前のエントリーも参照いただきたい。

 以上が「辺見庸氏の罵倒」に対する弁解の試みだが、書き足りないことがあるような気がしている。考えがまとまれば、追加したい。
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by news-worker | 2006-08-21 17:06 | メディア  

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