教祖の死刑確定に割り切れなさが残る

 オウム真理教の教祖松本智津夫被告の死刑がきのう15日、確定した。2年前の2月に東京地裁が言い渡した死刑判決を不服として、被告側が行った控訴を東京高裁が棄却する決定をし、その決定を不服として弁護側が行った異議申し立ても東京高裁が棄却した。その東京高裁決定をさらに不服として弁護側が最高裁に申し立てた特別抗告を棄却したのが、きのうの決定だった。死刑執行を回避しようとすれば、本人の精神状態は別として、あとは再審請求しかない。
 死刑確定後は、新聞の用語上は「被告」から「死刑囚」に呼称が変わる。きょうの夕刊から「松本死刑囚」となる。ついでに言えば、新聞によって「松本」か「麻原」か異なる。麻原とは教祖名の「麻原彰晃」だ。オウム真理教という教団の教祖、指導者という側面を重視すれば「麻原」の表記になり、「宗教」というフィルターを排して、一人の人間として裁判を受ける立場であることを重視すれば戸籍名である「松本」を使う。新聞各紙の見解はそんなところではないだろうか。本人自身は初公判の人定質問で名前を問われ「麻原彰晃です」と答え、裁判長から「松本智津夫ではないか」と問われると「その名前は捨てた」と答えたように記憶している。

 教団の一連の事件と、松本智津夫や側近幹部らの裁判をめぐっては、既にいろいろな人たちがいろいろな見解を明らかにしている。きのうの「死刑確定」の意味についても同様だ。わたし自身は、制度としての死刑は存続の意見だし、一連のオウム真理教の事件への関与について、松本智津夫に刑法上の責任は明確にあると考えている。だから、死刑という結論自体は免れ得ないものだと思う。しかし、「結果」ではなく、その結果に至るまでの経緯をも含めた「結末」という意味では、割り切れなさが残る。国家が司法制度の手続きを踏み一人の個人を殺すのに、そんなに急ぐ必要があるのか、という疑問と言ってもいいかもしれない。「急ぐ」というのは、裁判にかかる時間の観念のことではない。手続きのことであり、三審制の手続きを踏み、控訴審で事実審理に進んでいれば社会が利益を得ることができたかもしれないのに、その機会が奪われてしまったことへの、社会の一員、生活者の一人としての割り切れない思いだ。



 わたしが今思い起こすのは、地下鉄サリン事件が起き、一連の教団の事件をめぐる捜査が大展開し社会全体が騒然としていた1995年当時のことだ。
 地下鉄サリン事件は3月20日の朝に起きた。わたしは前夜は宿直勤務だった。明けの朝、「地下鉄の駅で人がバタバタ倒れている」との第一報が飛び込んできて、長い一日が始まった。午前中のうちには、満員の地下鉄電車内でサリンと疑われる薬物が撒かれたこと、前年に起きていた松本サリン事件に続く無差別テロであることなど、全体像はほぼ判明していたように思う。取材に散った同僚記者たちからの電話取りに追われ、喧騒に包まれた職場の一角で原稿を書き続け、気が付いたら日が暮れていた。朝刊用の最後の原稿の一節に「首都東京は終日、見えない脅威におびえ続けた」と書いたのを鮮明に覚えている。それはわたし自身の正直な思いでもあったからだ。
 教団に対する本格的な捜査は、その直後から始まった。2日後の3月22日早朝から山梨県上九一色村の教団施設、「サティアン」と呼ばれた建物群に警視庁の大規模な一斉家宅捜索が入ったとき、わたしは半ば本気で、教団がサリンを撒き散らすのではないか、あるいは爆弾でも爆発させるのではないか、原爆の一つくらいは持っているのではないかと、不安で仕方がなかった。
 確かその年の5月の日曜日だったと思う。今のようにネットがある時代ではなかったが、「オウムが新宿でテロを起こす」「新宿には行かない方がいい」という噂が口コミで広がった。「デマだ」と切り捨てる気にはなれなかったし、報道でも取り上げられた。現に営業を取りやめた新宿のデパートもあった。それがまた噂の真実味を増すことになった。
 後に殺害されていたことが判明する坂本堤弁護士一家不明事件があり、教団が坂本弁護士を敵視していたことが強く疑われていたにもかかわらず、あるいは松本サリン事件があったにもかかわらず、警察が教団の組織構成や活動の実態を把握するのが遅れ、地下鉄サリン事件を防げなかった、ということも報じられていた。
 警察はなりふり構わず、と言っても過言ではない捜査を進めた。オウム信者で幹部クラスとみれば、ありとあらゆる法令を駆使して逮捕した。それほどの幹部でなくても、カッターナイフ1本を所持していただけで銃刀法違反の現行犯とみなすことまでやった。教団幹部が一人、また一人と逮捕され、とうとう松本智津夫が逮捕され、テロ実行部隊のリーダーとみなされた逃亡中の幹部が逮捕されて、何となくほっとしたのはわたしだけではなかったと思う。それは、もう「見えない脅威」におびえ続けなくてもいいのだ、という安堵だったと思う。
 不明の弁護士一家は殺害されていたことが明らかになり、教団内でも信者の殺害事件があったこと、教団に敵対していた個人や団体も襲撃していたことなど、社会が知らなかった事件も次々に明らかになっていった。その一つひとつに衝撃を受けたが、もう地下鉄サリン事件の日に感じた「脅威」の感覚は薄れていたと思う。
 あれから11年が経った。松本智津夫と側近信者、実行グループに組み込まれた信者たちが「何をやったのか」は明らかになった。彼らが引き起こした事件は、彼ら自身も属していたはずのわたしたちの社会に対する攻撃だった。社会そのものを敵とみなしていた。「ポア」という言葉が流行ったが、それは教義で殺人を彼らの間で正当化する宗教の衣をまとった論法だったのだと思う。あえて例えて言えば、旧日本軍の軍人勅諭のようなものかもしれない。その宗教の衣をはがしてみなければ、彼らがどうして一連の攻撃を社会に仕掛けてきたのかは見えない。「何をやったのか」は明らかになっても「なぜ」はいまだ明らかになっていないと思う。
 「なぜ」を解明するのは裁判の目的ではない、と言われれば、その通りとしか言いようがない。事実の確定こそが有罪無罪を決めるのであり、動機は情状に過ぎない。動機は不明でも、何をやったかが確定すれば死刑になっても不当ではない。松本智津夫の裁判が再開されたとしても、彼が内面をすべて口にすることは期待できないということも理解できる。「だから早く死刑にしろ」という考え方も、遺族感情からはまったくその通りだと思う。しかし、それでもなお、「なぜ」を解明する場として、例え可能性はわずかだとしても、その場はやっぱり裁判だったのではないか、という思いがわたしには残っている。松本智津夫に口を開かせる場は、裁判しかなかったのではないだろうか。
 オウム真理教について言えば、現実的な脅威は社会から排除されていると思う。なお信仰を維持している信者も公安当局の監視下に置かれ、仮にやろうとしてももう地下鉄サリン事件のようなテロは引き起こせない。しかし、なぜ一連の社会への攻撃が引き起こされたのか、そういうことをするグループが社会の中に生まれたのかについて、あれから11年が経った今現在、わたしたちは明確な答えを手にできているだろうか。「脅威」を招いたものが何だったのかが分からない、ということは、いつまた「脅威」が生まれるか分からない、ということでもあるのではないか。

 思い出話で、カッターナイフ1本で逮捕の例があったことを書いたが、オウム真理教の事件を境に、相手によってはそうした極端な人権の制限(逮捕は基本的人権の合法的な制限だ)もありうるということを、わたしたちの社会は容認した。容認したからこそ、そうした捜査も可能だった。
 こうした話は多くの人が指摘(例えば森達也さん)しているので多くは触れないが、オウム真理教の事件からの11年間で、わたしたちの社会はすっかり変容してしまったと思う。社会にとって「脅威」があれば、それを排除するためなら極端であっても人権の制限は許されるという社会になってしまった。その以前にも、そうした風潮はなかったわけではない。やくざや新左翼はしばしば極端な人権制限捜査の対象にされてきたが、社会はおおむね容認してきたと思う。しかし、この11年でその容認のハードルが大きく下がってしまった。裏返して言えば、表現の自由とか市民的自由の諸権利に対して、わたしたちの意識が後退してしまったということでもあると思う。本来、脅威やリスクをも受忍しなければ市民的自由と権利は守れない。民主主義とはそういうものだと思う。
 社会にとって「脅威」があれば排除する、そのために必要なら市民的自由の制限、権利の制限もやむをえないどころではなく、むしろ当然だ、という方向にわたしたちの社会はどんどん進んでいる。このブログでも書いてきたが、共謀罪をはじめとする「監視社会」への流れとはそういうことだ。その流れへの大きな曲がり角が、やはりオウム真理教の一連の事件だったとわたしも思う。仮に「脅威」に直面したとして、わたしたちが一方で考えなければいけないのは、その「脅威」がどうやって生まれてきたかということだ。ものごとはある日、突然に始まるのではない。必ず前史がある。その経緯を解き明かすことで、脅威を脅威でなくする方策が見えてくるかもしれないし、脅威が再び生まれることを防ぐ方策も見出せるかもしれない。これはオウム真理教だけではなく、他の問題にも共通することだと思う。

 話を松本智津夫の裁判に戻したい。オウム真理教という脅威は、今はわたしたちの社会から排除されている。しかし、なぜ事件は引き起こされたのかと言えば、側近幹部たちの裁判を含めても、結局は自らを「尊師」「グル」と呼ばせ、教団で唯一絶対の存在だった松本智津夫の指示があったから、ということしか分かっていない。本人はそうした点について何も語らないまま、裁判は幕が引かれた。やはり、本人に語らせる努力をもっと尽くすべきだったのではないか。その余地はあったのではないかと思えてならない。
 裁判官は法と良心にのみ拘束される、といわれる。手続きは法にのっとっているから、今、死刑確定の結論を出したということは、裁判官個々の良心がその結論を選択したということなのだろう。しかし、司法が社会に何を利益として提供できるかを考える、そういう良心もあってほしかった。裁判の場で、教祖に内心を語らせることができるならば、一連の事件を引き起こしたものは何だったのか、その原因はわたしたちの社会とどう関係しているのか、を探る上で大きな意義を持つのだから。

 社会が脅威に直面した時、わたしたちはどうやってその危機を乗り越えていくのか。脅威を力づくで排除するだけでなく、人それぞれが、自分が生きてきた時間を振り返りながら考えていくことも必要だと思う。
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by news-worker | 2006-09-16 16:38 | 社会経済  

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