2005年 05月 04日 ( 1 )

 

脱線転覆事故に思うこと

 尼崎市のJR脱線転覆事故には思うことが多い。中でもJR西日本の効率最優先の経営方針と、その方針に基づく人事労務政策、乗務員教育の在り方は、労働組合の存在意義ともあいまって、いろいろと考えさせられる。
 死亡した運転士は車掌乗務の時期も含めて2年の間にオーバーランその他で社内処分を3回受け、再教育を受けていた。JR西日本の再教育がいじめ同然の過酷なものであったことも労組などが明らかにしている。しかし、わたしがまず素朴に疑問に思う、あるいは不安を覚えるのは、短期間にミスを繰り返していた社員が、ラッシュ時間帯の快速電車を運転士として運転していたそのこと自体だ。
 現在までに判明している客観事実は、死亡した運転士が事故直前にオーバーランをやってしまい、現場付近では時速100キロ超のスピードを出していたとみられる、ということまでだ。事故原因の解明は終わっておらず、スピード超過とその後の急ブレーキが脱線を招いたのか、運転士が遅れを取り戻そうと焦っていたのかなども、現時点では推測の域を出ない。しかし、そういうことを抜きにしても、もし自分が乗客としてラッシュ時に乗っている電車の運転士がミスのリピーターだとしたら、やはり不安に思う。一人前の運転士とみなして乗務させるのなら、まず適正を見極め、初期教育から実践教育に至るまで十分に手間とヒマをかけ、実務に就いた後もベテラン運転士が適宜、同乗して技能の向上に努める、ぐらいのことがなされているだろうと、多くの乗客は思っているのではないか。わたしはそう思っていた。
 問題は、JR西日本の再教育の過酷さではなく、ミスのリピーターであることを承知の上で乗務させていたことだ。「絶対安全運行」のためには、運転士の習熟にどれだけの時間と労力が必要か、あるいは運転士の絶対数はどれだけ必要か、といったような発想が果たしてJR西日本の経営陣にあったのかどうか、そのことを疑問に思う。要は「安全のためにこそ『社員=人』を大事に育てる」という発想があるかどうかだ。その意味で、死亡した運転士がかわいそうでならない。
 ダイヤの過密化なども報道では指摘されているが、暴論を承知で言えば「人」は「慣れる」生き物だ。十分に経験を積んでいけば技量は上がる。多少の過密ダイヤでも、運転をこなすことは可能だ。だからダイヤ編成自体は本質的な問題ではない。過密ダイヤを組むときに、運転士の技能の習熟という人間的な要素が加味されていたかどうかが問われるべきだ。
 経営陣にも言い分はあるだろう。私鉄との競争に打ち勝ちつつ、利益を確保しなければならないのが至上の課題だからだ。想い起こせば、そのためにこそ、旧国鉄は分割され民営化されたのだった。
 その昔、旧国鉄時代に「順法闘争」という労組の闘争戦術があったことを思い出す。例えば電車の運転士が発車の際、安全確認を念には念を入れて繰り返す。制限速度もきっちりと守って走らせる。ラッシュ時には当然、遅れが出る。しかし、安全第一というわけで、ストと並ぶ有効な戦術だったと記憶している。直接的には「要求獲得」の手段であり、利用客には迷惑なことだったかもしれないが、そうしたやり方で労働組合が現場から「安全」をアピールできた時代だったとも言える。
 経済効率最優先の元では、モノを言う労働組合はじゃまでしかない。国鉄の分割民営に伴い現場の労働組合も再編され、JR各社への採用をめぐっては、経営側に協調的な組合とそうでない組合の間に露骨な組合間差別が行われた。以後、JR各社の中で、「安全」に対する現場の良心がどこまで守られていただろうか。そのことがめぐりめぐって今日、このような事故が起きる一因になったと思えてならない。今になって労組が会社の非人間的な労務管理を批判しても遅い。
 競争に勝ち、利益を確保するためには安全面でも多少のことには目をつぶったまま突っ走る経営陣。それをとめるのは労働組合の役割のはずだ。「絶対安全」の確保に必要な人員を要求する、常にベストの状態で乗務できるよう労働条件の改善を要求する。それらの要求を実現させるためにあらゆる努力をする。それは現場をいちばんよく知っているプロフェッショナルとしての職業倫理であり、社会的責任でもあるはずだ。現場の一人ひとりは組織の中では弱い立場にある。だから労働組合が必要だ。労働組合はあっても、経営者に迎合するだけで現場の良心を汲み取ることができないのでは、それは労働組合ではない。そのことは強調したい。自戒を込めて。
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by news-worker | 2005-05-04 00:22 | 労働組合