2006年 01月 05日 ( 1 )

 

書評「働きすぎの時代」

 
c0070855_11392492.jpg今だけ委員長さん「初売りで賑わう商店街で… 運ぶ手間=300円」のエントリーで、郵政公社とヤマト急便が、福袋の発送を1個300円で請け負うのを見て「これまでは、消費者ニーズがあるから仕事が生まれてきたのでしょうが、いまは『仕事を得るため』にこれまでの生活習慣すらもぶち壊す方向へ向かっているように感じます。自分で買った物を運ばせる―日本人ってそんなに裕福な生活習慣が備わってしまったのでしょうか。」と感想を書かれている。わたしも同感。少し前に読んだのだが、森岡孝二・関西大教授の「働きすぎの時代」(岩波新書)を思い出した。
 労働時間は世界的にみても1980年代以降、増加に転じている。森岡教授は今や世界は新たな「働きすぎの時代」に入っていると指摘し、その原因、背景として現代の高度資本主義の4つの特徴を挙げている。ひとつはグローバリゼーションによるリストラと産業再編、2つ目は情報通信技術の発達、つまりIT化、3つ目が大衆消費社会、4つ目が森岡教授は「フリーター資本主義」と名づけているが、雇用面の規制緩和と労働市場の流動化による非正規労働の増大と、それがもたらした正社員の長時間労働化だ。
 冒頭の郵政公社と黒ネコヤマトに話を戻すと、これは3点目の「大衆消費社会」そのもの。森岡教授は「コンビニや宅配便に象徴される、利便性を追求するサービス経済の発展は、情報化の進展とあいまって消費者の需要構造を変化させ、経済活動の24時間化をもたらし、働きすぎの新しい要因をつくりだしている」と指摘する。
 これもまた、小泉首相が声高に叫ぶ「改革」の果てのわたしたちの社会だ。企業は利益を求めて走り続けるしかない、足を止めたら負け。新しい「仕事」も創り出す。それが「ビジネス・チャンス」。でも、そこで働いている人間はどうなるだろうか。労働組合も現状をすべて受け入れてしまったら、労働者の健康はだれが守るのだろうか。「過労死」は自己責任になりかねない。実際のところ裁量労働、あるいはホワイトカラー・エグザンプションはそうした制度だ。

 新聞産業ではとりわけ編集部門、記者の世界に、伝統的に長時間労働がある。政治部や社会部では、担当によっては月間の超過勤務時間が恒常的に200時間を超えるなど、常軌を逸していると言っていい。記者の働き方の問題は、権力寄りと指摘される新聞ジャーナリズムの問題の本質にも深くかかわっていると思うのだが、なかなか改善されない。社会経済の構造的な変化ばかりではなく、「新聞記者とはそういうものだ」という職業意識もある。
 こうした「自己実現のための働きすぎ」に対しても、森岡教授は解答を用意している。それは雇用者、管理職が強権を発動して働かせないようにすることだ。つまり、労働基準法その他のルールを会社に守らせることだ。
 どこの新聞社も人員増は容易には認めない。会社はホンネでは、まず社員の一人ひとりを目一杯働かせようとする。編集の職場で言えば「記者魂を逆手に取られている」のが現状だと思う。しかし、新聞産業もIT化が進み、インターネット展開で24時間化が進んでいる。生身の人間の働き方としては、限界を超えているというのが実感だ。一人ひとりの働きが足りないのではなくて、記者の人数が足りないのだ。あるいは、仕事を増やしすぎてしまい、人間が追いつけなくなっている。せこい人件費抑制を許してはならない。簡単な話だが「健康でなくてはいい記事は書けない」はずだ。
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by news-worker | 2006-01-05 11:43 | 読書