2006年 01月 18日 ( 2 )

 

宮崎勤被告死刑確定へ、に想うこと

 埼玉・東京の連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤被告に対し、最高裁が17日、上告棄却の判決を言い渡し、死刑が確定することになった。以前のエントリーでも触れたが、わたしは埼玉県警の担当記者だった20代後半の当時に、この事件と最初から最後まで付き合い、その後も東京地裁の公判を裁判担当記者として取材する巡り会わせを経験した。正直、最高裁判決には色々な思いが胸をよぎる。今回はそのうちの一部だけ。
 彼は1年弱の間に4人の女児を次々に殺害していったのだが、その手口は回を重ねるごとに、明らかにエスカレートしていっていた。彼の精神の内面が「異常」だったとすれば、犯行がエスカレートしていったというそのこと一つを取っても、彼の異常さそのものが当時から〝進化〟していたのだと思う。
 しかし、そのことと彼に刑事責任があるかどうか、つまり善悪の判断能力があるかどうかはまた別の問題だ。公判では特異な言動が目立ったが、少なくとも取材者としてのわたしはその後姿を見ていただけだ。東京地裁判決のとき、作家の佐木隆三さんが「彼の得意な言動を、正面から彼の目を見ながら聞いたのは裁判官だけ。その裁判官が『責任能力を問える』との心証を持ったのだから、自分は有罪判決を以外意外とは思わない」との趣旨のコメントをしたが、わたしも佐木さんの指摘に納得した記憶がある。きょう、最高裁の結論を聞いてもその思いは変わらない。
 最高裁判決を受けて、識者の意見が種々報道されている。「個人を裁くだけでなく、宮崎勤を生んだ社会を裁く裁判にすべきであった」との意見も多くみられるが、それは裁判官の仕事ではない。少なくとも裁判官たちはそうは考えなかったのだろう。わたしも1審の審理を取材していた当時は、裁判官が時代をどう裁くのか期待したこともあったが、1審判決でその期待は捨てた。今回も最高裁判決は十分に予測できる内容だった。宮崎勤という人間を生み出したのは何だったのか、それを見極めるのは、わたしたち一人ひとりでしかない。
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by news-worker | 2006-01-18 01:57 | 社会経済  

特捜部がホリエモン立件を狙うことの意味は?番外編

 一つ前のエントリーで「今回の強制捜査に働いた体制内力学をぜひ書いてほしい」と、ライブドア=ホリエモンへの東京地検特捜部の強制捜査をめぐる報道について書いていたら、stochinaiさんのブログ「5号館のつぶやき」(のコメント)経由で、こういう指摘があることを知った。真偽のほどは別として、筋は通っているし、読んで楽しめるのは間違いがない。
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by news-worker | 2006-01-18 01:22 | 社会経済