2006年 06月 25日 ( 1 )

 

軍隊は住民を守らない~沖縄戦の教訓

 23日は沖縄の慰霊の日だった。1945年のこの日、沖縄の日本軍守備隊、第32軍の牛島満司令官、長勇参謀長が自決し(22日という説もある)、日本軍の組織的抵抗が終わったとされる。しかし、実際には沖縄各地で生き残りの日本兵の散発的な抵抗は続いたという。米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日だった。
 戦後60年の昨年、新聞労連は「しんけん平和新聞」創刊号を発行し、1945年の日本の敗戦を振り返った。その中で、新聞労連沖縄地連に、2ページにわたって沖縄戦の特集紙面を制作してもらった。その紙面からいくつか、データを拾ってみる。
 沖縄戦では、約90日間の戦闘で住民9万人以上が死亡した。日本兵の戦死者は約10万2千人、米軍の戦死者は5500人。住民の犠牲には多くの「集団死」が含まれている。日本軍は、住民が捕虜となり米軍に軍事情報が漏れることを恐れ、投降を厳しく禁じていた。一方で住民は「鬼畜米英」、つまり米軍に捕まると男は殺され女は陵辱されると信じ込まされていた。したがって、避難住民は米軍が迫ってそれ以上の避難が困難になると、集団で自ら命を絶つしかなかった。「スパイ」と疑われた住民が、日本軍に殺害された例もあった。
 「しんけん平和新聞」では、それまで「集団自決」と呼ぶことが多かったのを「集団死」にあらためている。「集団自決」では、住民が主体的に死を選択したように受け取られかねない。実際は、強制されたに等しい死だった。
 あらゆる意味で、沖縄戦の教訓は〝軍隊は決して住民を守らない〟ということに尽きる。そもそも、日本軍にとっての沖縄戦の位置づけは、本土決戦までの時間稼ぎだった。一日でも長く抵抗し、一人でも多くの米兵を殺すことが目的だった。沖縄の防衛と住民の保護が目的だったわけではない。
 戦争体験の風化が指摘されている。沖縄でもそうだという。戦争体験、なかでも「軍隊は住民を守らない」というその本質を継承していくのは、新聞をはじめとしたメディアの責務でもある。

 日本の敗戦後、沖縄は日本から切り離されて米軍の軍政下に置かれる。沖縄が本格的に「基地の島」となるのはそれからだ。住民が基地の被害を受ける側面だけでなく、ベトナム戦争では米軍の出撃拠点となり、加害者の側面も加わった。1972年に日本に〝復帰〟した後も、イラク戦争で沖縄の海兵隊が現地に出撃した。先の在日米軍基地再編計画の推移をみても、「世界の中の日米同盟」の下で、沖縄は負担軽減どころか、その基地機能はむしろ強化され、恒久化されようとしている。
 沖縄は61年前に一度、日本の防衛のために捨て石にされた。そのために戦後は米軍基地の重圧にあえぎ続けている。そして今また、2度目の捨て石にされようとしているのではないか。その状態では、慰霊の日にいくら鎮魂の言葉を口にしても、犠牲者は浮かばれない、と思う。
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by news-worker | 2006-06-25 00:43 | 平和・憲法~沖縄