2006年 09月 16日 ( 3 )

 

「戦争になれば戦う」が41%

 日本ジャーナリスト会議(JCJ)が毎日2回発行している「JCJふらっしゅ」というメールマガジンがある。少し古い話だが、その8月25日発行の1158号に興味深い記事があった。このメールマガジンは「転送紹介歓迎」なので、全文を引用して紹介する。

▽戦争になれば日本学生ら若者4割は戦う
 日中韓の若者意識調査

 このほど韓国政府傘下の「韓国青少年開発院」が日本と韓国、それに中国の各国若者約1000人を対象に行った調査で面白い結果が出た。
 16日に発表された意識調査結果では、まず「戦争になれば戦うか」との問いに、「イエス」と答えたのは日本が41・1%で最も多く、2番目の中国の14・4%と大きな差があった。
 その反面、日本は「ひとまず逃げる」も38・4もあり、韓国の「状況をみて判断する」の34・4%や中国の「出来る役割を果たす」の55・7%に比べ、対照的な回答を示していた。
 また、中国の若者の88・3%、韓国の74・7%が「自国の社会は将来良くなる」と答えたのに対し、日本は66・5%が「今と同じか悪くなる」と回答していた。その中で、日本の7割、韓国の8割が自分の国の政治家は信頼できないと答えた。
 このほか、「自分の国の長所は何か」の問いに、日本は「礼儀を守ること」、韓国は「団結心」中国は「勤勉性」が最も多く、その反面、短所は何かとの問いに、日本が「ぜいたく」を挙げ、韓国は「性急さ」、中国は「利己心」を挙げたという。
 逃げ出すと答えた日本の若者の多かった半面、4割が戦うと答えた。日本は中国や韓国などのように徴兵制度がない。兵役の実感がわかないということなのだろうが、それが「戦争」の悲惨さを想像できない、人の命の大切さを実感できない人々を生み出す傾向に結びつくのだとしたら、見直すべきことは多々ある。それを逆手に取って、教育基本法改悪を唱える政治家もいる。要注意だ。

 日本の「ひとまず逃げる」38・4%と「戦う」41・1%は、正反対の回答のようにみえて、実はともに戦争のリアリティが実感できないからこその回答という意味では、共通しているのではなかろうか。
 「逃げる」と言ったって、この狭い島国のいったいどこへ行くというのか? どこに隠れる場所があるだろうか? 「戦う」とはつまり第2次大戦の本土決戦だ。あるいは、実際に住民が軍に徴用され、おびただしい住民が犠牲になった沖縄戦をどう考えるのだろうか。そもそも、沖縄戦を知らないのかもしれない。
 もっとも大切なのは戦争を起こさせないこと。
 
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by news-worker | 2006-09-16 20:17 | 平和・憲法  

日弁連が共謀罪反対の意見書

 自民党総裁選が近い。もはや次期総裁は安倍晋三氏に決まったも同然の雰囲気で、半ば自動的に臨時国会では首相に選出されることになるのだろう。この臨時国会では教育基本法改正案、国民投票法案、共謀罪新設関連法案の審議が再開される。いずれもまったく別々の法案であり、国会で審議される委員会も異なるが、日本の社会がどういう道に進むのかとの観点からは、相互に深いつながりを持っていると思う。教育を国家の統制の下に置き(教育基本法改正)、反国家的な不穏な言論は厳しく取り締まらなければ(共謀罪新設)、日本は戦争国家になる(憲法「改正」)ことができない。

 日弁連が9月14日、「共謀罪新設に関する意見書」をまとめ、ホームページ上でも公開している。「法案の立法は、我が国の刑事法体系の基本原則に矛盾し、基本的人権の保障と深刻な対立を引き起こすおそれが高く、また、導入の根拠とされている国連越境組織犯罪防止条約の批准にも、この導入は不可欠とは言い得ないことから、認めることはできない」が骨子。4-5月の通常国会の衆院法務委員会で採決できなかったのは、共謀罪新設に世論が反対したからだとの指摘も盛り込んでいる。
 共謀罪の危険性は忘れられていない、と信じたい。
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by news-worker | 2006-09-16 18:59 | 平和・憲法~共謀罪  

教祖の死刑確定に割り切れなさが残る

 オウム真理教の教祖松本智津夫被告の死刑がきのう15日、確定した。2年前の2月に東京地裁が言い渡した死刑判決を不服として、被告側が行った控訴を東京高裁が棄却する決定をし、その決定を不服として弁護側が行った異議申し立ても東京高裁が棄却した。その東京高裁決定をさらに不服として弁護側が最高裁に申し立てた特別抗告を棄却したのが、きのうの決定だった。死刑執行を回避しようとすれば、本人の精神状態は別として、あとは再審請求しかない。
 死刑確定後は、新聞の用語上は「被告」から「死刑囚」に呼称が変わる。きょうの夕刊から「松本死刑囚」となる。ついでに言えば、新聞によって「松本」か「麻原」か異なる。麻原とは教祖名の「麻原彰晃」だ。オウム真理教という教団の教祖、指導者という側面を重視すれば「麻原」の表記になり、「宗教」というフィルターを排して、一人の人間として裁判を受ける立場であることを重視すれば戸籍名である「松本」を使う。新聞各紙の見解はそんなところではないだろうか。本人自身は初公判の人定質問で名前を問われ「麻原彰晃です」と答え、裁判長から「松本智津夫ではないか」と問われると「その名前は捨てた」と答えたように記憶している。

 教団の一連の事件と、松本智津夫や側近幹部らの裁判をめぐっては、既にいろいろな人たちがいろいろな見解を明らかにしている。きのうの「死刑確定」の意味についても同様だ。わたし自身は、制度としての死刑は存続の意見だし、一連のオウム真理教の事件への関与について、松本智津夫に刑法上の責任は明確にあると考えている。だから、死刑という結論自体は免れ得ないものだと思う。しかし、「結果」ではなく、その結果に至るまでの経緯をも含めた「結末」という意味では、割り切れなさが残る。国家が司法制度の手続きを踏み一人の個人を殺すのに、そんなに急ぐ必要があるのか、という疑問と言ってもいいかもしれない。「急ぐ」というのは、裁判にかかる時間の観念のことではない。手続きのことであり、三審制の手続きを踏み、控訴審で事実審理に進んでいれば社会が利益を得ることができたかもしれないのに、その機会が奪われてしまったことへの、社会の一員、生活者の一人としての割り切れない思いだ。

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by news-worker | 2006-09-16 16:38 | 社会経済