カテゴリ:メディア( 70 )

 

特殊指定改廃に反対する新聞労連声明

 新聞の値段は雑誌や書籍、レコード・CDとともに、数少ない「定価」だ。同じ題号の新聞なら、全国どこでも発行本社が指定する同じ値段で戸別配達される。例外は、教材用に学校がまとめ買いする場合などに限られる。独占禁止法の例外として再販制度が適用されているからだ。
 独禁法は商品の価格をメーカーや問屋が指定し拘束することを禁止している。小売店にとっては、価格は他店との重要な競争手段だからだ(ちなみに「そうは問屋が卸さない」という言い回しは、言うことを聞かない小売店に問屋が商品を回さず、干し上げて屈服させることが由来。こうした行為も独禁法違反)。新聞はそういう特殊な商品だから、独禁法が禁止する「不公正な取引方法」も個別に規定されている。これが「特殊指定」と呼ばれる取り決めだ。
 公取委は11月に、その特殊指定の見直しを表明した。再販制度は存続させるとしているが、s特殊指定と再販は一体で運用されており、仮に特殊指定が改廃されると、新聞販売店の経営は崩壊し、発行本社の収入バランスが崩れ、ひいては紙面が荒れることになる。その辺のことは以前にも書いた(ココ)ので繰り返さないが、必ずそうなる。
 公取委の方針表明から間があいてしまったが、先週の新聞労連中執委で特殊指定改廃に反対する声明を取りまとめ公表した。新聞を守るには、読者の理解と支持が不可欠と思う。
 公取委の狙いについては「今だけ委員長さん」のブログ「新聞業界ってオモシロイ!?」の分析が、新聞販売の現場に身を置く方だけに鋭い。ご一読を。
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by news-worker | 2005-12-20 18:45 | メディア  

西村議員の再逮捕の意味

 西村真悟・衆院議員が組織犯罪処罰法違反容疑で大阪地検特捜部に再逮捕されたことを、19日付けの朝刊各紙が伝えている。容疑の中身は「犯罪収益収受」。つまり非弁活動(弁護士資格を持たない者が、弁護士にしかできない業務をすること)で違法に得た利益の分け前を受け取っていたということだ。各紙とも「国会議員に初めて適用」「弁護士に初めて適用」と伝えてはいるが、「初適用」の意味にはほとんど触れていない。(例えば共同通信
 実は、今回の再逮捕には深刻な意味がある。ヤメ蚊さんのブログ「情報流通促進計画byヤメ記者弁護士」で知ったので、詳しくはヤメ蚊さんのエントリーをお読みいただきたい(ココココ)。弁護士は刑事弁護では、無罪事件はともかくとして犯罪者から弁護士報酬を受け取る。その報酬の出どころは、犯罪行為であることが疑われる。もし、検察、警察がちゃんとした弁護をされたら困ると思ったら、この組織犯罪処罰法をちらつかせればいい、ということになる。
 もちろん、正常の弁護活動と弁護士活動を丸投げしていた西村議員とは比べるべくもない。しかし、検察、警察にとっては弁護士を揺さぶることが可能になる。それだけで効果はある。「弁護士に初適用」にはそういう意味があるのだが、新聞は書かない。
 そもそも組織犯罪処罰法は、ヤクザやマフィアに代表されるように、統制された組織犯罪に適用されるはずではなかったか。なぜ、西村議員に適用なのか、の「なぜ」を追っていけば、もっと書き方が変わってくるはずだ。特捜検事たち、検察幹部たちはいやな顔をするだろうが、それが新聞の「権力の監視」機能だ。
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by news-worker | 2005-12-19 10:16 | メディア  

放送の「市場開放」「『公共性』の放棄」を始めるつもりか

 7日の新聞各紙朝刊が一斉に伝えたが、竹中平蔵総務相が6日の記者会見で、放送・通信の融合推進を検討する総務相直轄の有識者懇談会を月内に発足させると表明した。主な標的はNHK。政府の経済財政諮問会議でもNHK〝改革〟が議論されているという。経済ニュースには明るい方ではないのだが、郵政民営化に代表される小泉政権の「改革路線」が、放送メディアにも本格的に向けられ始めた、ということだと思う。
 東京新聞経済面に「反対封じへ〝竹中演出〟」の見出しを取って掲載されたサイド記事(ネット上では見当たらなかった)によると、記者会見で竹中総務相はさまざまなことを話したようだ。いわく「なぜNHKでこんなに不祥事が続くのか」「なぜ、インターネットでテレビの生放送が見られないのか」「なぜ、タイム・ワーナーみたいな大企業が日本にはないのか」「海外に行くと米CNNや英BBC放送のように外国に情報発信している国があるのに、日本はほとんど見られない」。東京新聞記者はその様子を「予想される激しい『抵抗』を乗り切るには、『素朴な疑問』に訴え、国民の支持を取り付けるのが早道と心得ているようだ」と評している。有識者懇談会の設置も、事前に総務省の事務方はいっさい知らされていなかったという。
 確かに放送局と電波行政を握る総務省のもたれ合いの構図はあるし、放送と通信の融合を図ろうとする側から見れば、フジテレビVSライブドア、TBS対楽天問題の経緯からも明らかなように、既存の放送局はまさに「抵抗勢力」ということになる。しかし、それにしても竹中総務相の発言は、本来次元の異なる話をまぜこぜにして、一般社会への「分かりやすさ」の演出効果だけを狙っているとしか思えない。乱暴にすぎる。
 

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by news-worker | 2005-12-08 01:12 | メディア  

被害女児の実名は1回でいい

 広島の事件に続き、痛ましい事件の連続というほかないが、栃木県で行方不明になっていた小学校1年生の女児が、2日に茨城県内で他殺体で見つかった。その報道で、朝日新聞と東京新聞の記事の書き方に、従来からの顕著な変化がみられる。それは、一面のいわゆる「本記」記事、社会面のいわゆる「雑観」「サイド」記事ともに、被害者女児の実名は初出だけで、以後は単に「女児」と表記していることだ。
 共同通信の配信記事かどうかは紙面では分かりにくいのだが、共同通信も同様の表記を続けており、東京新聞は共同通信の配信記事との整合上、こうした措置をとっているのかもしれない。
*東京新聞の記事の例

 栃木県今市市立大沢小一年の吉田有希ちゃん(7つ)が下校途中に行方不明となり、茨城県常陸大宮市の山林で他殺体で見つかった事件で、栃木、茨城両県警の合同捜査本部が三日、司法解剖した結果、女児の死因は鋭利な刃物で心臓を刺されたことによる失血死と分かった。
 調べでは、女児は胸だけを数カ所深く刺されており、ほぼ即死状態だった。胸以外に目立つ外傷はなかった。凶器は刃幅がかなり狭く、アイスピックに近い鋭利な刃物だったことも判明。死亡推定時刻は女児が行方不明になった一日午後から二日午前九時ごろとみられる。
 また、女児の遺体が見つかった茨城県の現場の林道に、車が脱輪した跡や道路脇の樹木に接触した形跡もないことが三日の現場検証で判明した。
 林道は軽自動車がやっと通れる道幅しかなく、街灯もない。このため、同本部は、遺体が日中に遺棄された可能性が高いとみている。
 捜査本部は三日朝から計三百人態勢で二つの現場周辺での聞き込みと遺留品の捜索を行ったが、女児の所持品などは見つからなかった。
(引用終わり)

 ネットで見る限り、読売新聞、毎日新聞は記事中でその都度、女児の実名を記している。そうした中での朝日、共同、東京の書きぶりは、際立っている。恐らくは、被害者の人権に配慮しての記事の書き方だ。こうした書き方に違和感があるかどうか、読者の受け止め方はどうだろうか。初出で実名を記しているのだから、同じ記事中で再び表記するときに匿名にすることに何ほどの意味があるのか、という批判もあるかもしれない。
 それでもわたしは、今回の朝日や共同、東京の試みを是としたい。犯罪被害者の権利擁護のために、何もしないよりはいいからだ。
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by news-worker | 2005-12-04 09:30 | メディア  

「悪魔」と「ねずみ人間」、ペルー人容疑者と宮崎勤被告

 広島の女児殺害事件は、ペルー人容疑者が1日に接見した弁護士に対し犯行を認めた。2日の朝刊各紙も大きく報道している。わたしは前回のエントリーで、「『警察はこういう見方をしている』ということを情報として報じるのもいい。しかし、そのことと容疑者が本当に犯人かどうかは、別の問題のはずだ」と書いた。容疑者が話した内容が警察からではなく、弁護士を通じて明らかになったのは、情報のクロスチェックの意味では評価できると思う。しかし、依然、容疑者には「無罪推定の原則」が考慮されるべきだ。
 彼が弁護士に話した内容は、朝日新聞(東京本社発行14版)の社会面に囲み記事で詳しく出ている。気になるのは「次の瞬間、何が起こったのか分からない。悪魔が自分の中に入ってきて体を動かした。気がついたら女の子が横たわっていた。まぶたを閉じていたので、死んだと思った。神に祈ったが、悪魔が去らなかった」と、殺害の実行行為は「分からない」としている点だ。女児に声を掛けたときの様子や、その後、遺体をダンボールに詰めたことなどは具体的なのに、だ。
 「悪魔」は宗教上の信仰にかかわりがある比喩的表現なのか、あるいは具体的に彼が経験した(と彼が思っている)事象なのか。弁護士は取材に対して、精神鑑定の必要性も検討する趣旨の発言をしたようだ。今後の推移によっては、仮に殺害の実行行為が確定しても、責任能力の問題が浮上する可能性が出ているということに留意したい。心身喪失の状態、善悪を判断する能力を欠いた状態なら、無罪になる。しかも、彼は日本語が不自由だ。メディアが慎重に、多角的に、捜査・取り調べ情報を集める必要があることには変わりがないと思う。

 「悪魔」で思い出すことがある。昭和から平成の変わり目にかけて埼玉県と東京都で4人の幼女が誘拐、殺害された事件だ。「おたく」という言葉が一躍、脚光を浴び「有害ビデオ」の排除を大義名分に表現規制まで招いた事件。わたしは当時、埼玉県警の担当記者で、文字通り、一連の事件発生地の埼玉県西部を駆けずり回っていた。
 この事件で起訴された宮崎勤被告とは、その後、東京地裁の審理を司法担当記者として取材するめぐり合わせとなった。被告人質問で彼は、幼女の1人の殺害について「ねずみ人間」と口にした。記憶だけなので確かなことは言えないが、「ねずみ人間が出てきて怖かった。気が付いたら幼女が倒れていた」と法廷で話した。彼が口にした「ねずみ人間」という言葉は鮮明に覚えている。
 「悪魔」を「ねずみ人間」に置き換えたら、今回の広島の容疑者とそっくりではないか。その宮崎被告をめぐっては、公判段階の精神鑑定で3通りの結果が出た。11月22日に最高裁で弁論があり、来春にも判断が示されそうだ。最高裁弁論のときの産経新聞の記事が、精神鑑定も詳しい。
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by news-worker | 2005-12-02 11:13 | メディア  

ペルー人容疑者報道に違和感

 広島の女児殺害事件が11月30日のペルー人容疑者逮捕で新局面を迎えている。30日付夕刊に続いて、きょう(12月1日)付の朝刊各紙も紙面で大展開。社会部の職場を離れ、新聞を外側から見るようになって1年4カ月が経ったが、今回の新聞各紙の報道ぶりに正直に言って大きな違和感ととまどいを感じている。
 ネットでチェックしたところでは、けさの朝刊で毎日が「女児の衣類に汗とともに付着していた皮膚組織のDNAが、容疑者のものと一致した」と報じている。読売は「女児の制服についた汗の乾いた跡などのDNA型が一致」と報じている。両紙とも、記事の趣旨はこの「DNA鑑定」結果を決め手として、広島県警が容疑者逮捕に踏み切ったというものだ。それはそれでいいと思う。わたしが取材班に加わっていたとしても、そのこと自体は大きなニュースだと判断すると思う。
 違和感を感じるのはその先なのだが、例えば毎日の同じ記事中には「また、遺体が押し込まれていたガスコンロ用の段ボール箱の中に、粒状チョコレートの包み紙があったが、容疑者の自宅から同じ種類のチョコの外装が見つかった。遺体を押し込む際に、室内にあったチョコの包み紙が段ボール箱に入った可能性があり、有力な物証とみられる」と、「容疑者=犯人」とした書き方をしている。この「容疑者=犯人」の論調は、程度の差はあれ30日夕刊段階から新聞各紙の記事に表れている。30日早朝のネット上のサイトに載っていた記事では「容疑者逮捕で事件は解決した」という表現すらあった。
 警察が容疑者(警察用語では「被疑者」)を犯人視するのは、ある意味では当然だ。「犯人ではないかもしれませんが、怪しいので逮捕しました」では許されないことを彼らはよく知っている。彼らは「こいつは犯人だ」と本当に確信しているから逮捕する。しかし、新聞は違うはずだし、これまでも事件報道の在り方が議論になるたびに、各紙は紙面でいわゆる「無罪推定の原則」を尊重することを表明してきている。しかし、やっぱり実際にやっていることとの間には、大きなかい離がある。違和感を感じざるをえない原因はそこにある。

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by news-worker | 2005-12-01 11:22 | メディア  

続 被害者の実名、匿名

 事件事故をめぐるメディアへの警察発表の際、被害者の氏名を実名とするか匿名とするかの判断を警察に委ねるべきかどうか。わたしは「被害者の実名、匿名」のエントリーで、新聞協会が国の「犯罪被害者等に対する基本計画検討会」に慎重姿勢を求めたことに対して「その主張は正論であることは違いない。わたし自身の考え方も近い。しかし、一般の市民からは支持を受けないだろうな、と思う。これまで、新聞やテレビの事件事故報道は『被害者不在』をずっと続けてきたからだ」と書いた。その後、このエントリーに批判的なTB、コメントもいただいたので、少しわたしの考えを補足して書いておきたい。
 被害者の氏名の扱いを警察の裁量に委ねるのを是とする主張の最大の理由は「メディアの被害者に対する配慮の無さ」だろう。そのことはわたしも否定しない。被害者側が警察に匿名発表を求めることも理解できる。しかし、今の警察は決して国民を守る存在ではない。確かに、そういう責任と期待を負っている公権力だが、最近の警察には恣意的に強制捜査権を行使する例が目立つ。それは、今のメディアが「国民の知る権利を代行する」責任を果たしていないのと似た関係にあるといってもいいと思う。
 今の警察は、例えば政治的主張の表現活動として容認されるべき「ビラまき」行為に対しても、住居侵入などの容疑で逮捕している。ビラの内容は「イラクへの自衛隊派遣反対」であったり、配布しているのが共産党員だったり、恣意性は明らかだ。今の共産党員が、明日は民主党員がターゲットにならない保障はない。これに共謀罪でも新設されたら一体、どうなるのか(メディアも追及が甘い)。
 また、北海道警など捜査費の不正流用を自ら認めた例でも、裏金づくりの過程で警察組織内で行われていたはずの数々の違法行為は捜査すらしていない(メディアも追及が甘い)。いわゆる埼玉県桶川市の女子大生殺人事件でも、被害者が生前、ストーカー行為の被害を訴えていたのに放置し、事件後、そのことが発覚するといったんは謝罪しながら、遺族が起こした損害賠償請求訴訟では一転して責任回避の姿勢を見せた。何があっても守る対象は「国民」ではなく「警察組織」だ。
 そこまで日本中の警察官すべてが悪質ではないとしても、警察は事件事故の当事者がメディアと接触するのを極度にいやがる。「捜査妨害」との理由だ。自由裁量を彼らが手にしたとき、恐らく、匿名発表の乱発が始まる。被害者情報をメディアから遮断することを社会が是とすることは、メディアが警察発表だけで記事を書くことを社会が是認することを意味する。しかし「警察発表の垂れ流し」は、まさに今のメディアの体質的な問題点だ。これは大きな矛盾だ。
 今のメディアの報道姿勢に問題が大ありなのは間違いない。しかし、だからといって被害者保護の名目で、被害者情報の扱いを今の警察に委ねることに、わたしは同意できない。
 ここまで書いてきて思うのだが、カギになる用語は「今のメディア」と「今の警察」かもしれない。メディアの内部に身を置くわたしとしては、メディアが変わるしかない、変えるしかないと考えている。しかし、現実の問題としてメディアはちっとも変わらないし、それでは何ら現実的な問題の解決にもならないということも理解できる。二者択一の問題ではないのかもしれない。
 被疑者のための「当番弁護士制度」というものがある。弁護士会が当番制で弁護士を待機させておき、逮捕直後でも被疑者の要請があれば接見に赴く、という制度だ。これにならうなら、被害者がメディアでもなく警察でもなく、第三者に様々な相談をできる制度、機関の実現を目指すことが必要かもしれない。警察が、メディアへの発表が必要と判断した場合は、被害者側にそういった制度、機関があることを通知することを義務づける。被害者の依頼を受け警察、メディアの間に入って、被害者の諸権利を守る制度、機関だ。これは思いつきと言えば思いつきだし、本来はメディア自身がそうした信頼を得なければならない、ということが大前提だが。

追記(11月19日午前0時45分)
 日中はバタバタしていて、夕刊にろくに目を通していなかったのだが、こんな記事が出ていた。 
「被害者は実名発表を」 殺人事件被害者の父が請願書(朝日新聞)
 「犯罪被害者実名で」遺族が首相あてに請願書(読売新聞)

(以下、読売記事の引用)
 東京のJR池袋駅ホームで1996年、男に暴行を受けて死亡した埼玉県春日部市の立教大4年小林悟さん(当時21歳)の父・邦三郎さん(60)が18日、「警察は犯罪被害者をできるだけ実名発表し、報道機関の自主判断に委ねることを望む」と訴える小泉首相あての請願書を内閣府に出した。

 政府の犯罪被害者基本計画案作りでは、被害者名を実名・匿名のどちらで発表するかの判断を警察に委ねる方向で議論が進んでいるだけに、被害者遺族が実名発表を求める動きは、議論に一石を投じそうだ。

 日本民間放送連盟も同日、実名原則への修正を求め、再度申し入れた。

 請願書では、「被害者の実名・匿名発表と報道被害は、論じる基本が異なる」とした上で、「匿名は人間としての存在を否定する行為で、亡き者が一番悔しい思いをしており、実名報道が原則」と強調。

 「マスコミが被害者の了解を得てから取材するのは当然」としつつ、「加害者の話だけで事実と違うことを公表され、被害者が社会から批判され、誤報で傷付くのが報道被害。警察の確認が不十分のまま報道されているのが現状で、これらを調査し、正してくれるのもマスコミだ」としている。
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by news-worker | 2005-11-18 20:24 | メディア  

メディアの信頼回復

 先週の土曜日(12日)の午後に「報道と知る権利~マス・メディアの“今”を問う」と題した月刊誌「マスコミ市民」主催のシンポジウムに出演した。パネラーはビデオ・ジャーナリストの神保哲生さん、元NHK記者で椙山女子大客員教授の川崎泰資さんにわたし、コーディネーターはアジアプレス・インターナショナル代表の野中章弘さんという顔ぶれ。
 わたしの発言としては、メディアの現場では「企業第一主義」とでも呼ぶべき利益・効率優先主義のもとで、日々の取材・報道をジャーナリズムの観点から議論する余裕も雰囲気もなくなっていること、経営者も「企業の生き残り」は口にしても「ジャーナリズム」を口にすることがなくなっていること、その結果、記者一人ひとりの良心が組織の中で孤立化していっていることなどを話した。また、全下野労組の争議も紹介し、そうした中でも闘う新聞の労組があり、働く者の立場で横の連帯を再構築していくきっかけになるということも話した。
 しかし、会場の参加者にはあまりピンとこなかったかもしれない。むしろ、これだけメディアのあり方が問われているのに、労働組合は、新聞労連は何をするつもりなのか、といった趣旨の厳しい質問を受けた。NHKの番組改変問題でも、NHKも朝日新聞も労働組合が前面に出てこないのはなぜか、という質問もあった。それは恐らく編集権(対外的な意味ではなく、メディア内部の問題として。つまりメディア企業ならどこでも経営者たちは「編集権は会社にあり、個々の社員や労働組合は関与できない」というスタンスだ)の問題が根底にあるだろう、という答えしかできなかった。
 シンポを終えて、やはりわたしたちメディアの内部にいる人間と、外からメディアを見ている人たちとの間の温度差を感じないわけにはいかなかった。今、新聞など既存のマスメディアは相当に厳しい目で見られている。しかし、そのことに内部の人間がどこまで本当に気付いているか、ということだ。これは、わたしたち労働組合にもあてはまる。
 メディアの信頼回復のためには、外の世界に出て行くしかない。いいことも悪いことも、包み隠さずさらけだし、批判は批判として受け止めなければならない。そうしないと市民の理解と応援は得られない。マスメディアが市民から孤立していけば、ただの「だめな会社」だ。
 新聞労連の委員長として言うべきことではないかもしれないが、シンポでは「ひどい報道だ、と思ったら新聞の購読をやめてください。『会社の生き残り』しか頭にない経営者たちにはそれがいちばん効く。でも、逆に『こんな記事を読みたかった』というようないい記事は応援してください。『ぜひ続けてくれ』という電話を一本かけてください」と話した。
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by news-worker | 2005-11-14 01:52 | メディア  

警察庁記者クラブ裁判の結果(速報)

 出張中でキャッチが遅れたが、前にも書いた(ここ)フリージャーナリスト寺澤有さんらが、警察庁長官の定例会見をめぐって、国とクラブ幹事社(当時)を相手に申し立てていた仮処分申請で、東京地裁が8日、申請を却下する決定を出した。詳しくは寺澤さんのレポートを。この件に関してはあらためて書きたい。
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by news-worker | 2005-11-09 13:43 | メディア  

それでも新聞再販は必要

 少し前の話だが先週2日、公正取引委員会の事務総長が定例の記者会見で、新聞を含めた独占禁止法上の「特定の不公正な取引方法」(特殊指定)の見直しを表明した。日本新聞協会は同日、再販制度を骨抜きにしかねないとして公取委の方針に抗議し「現行規定の維持を強く求める」とする声明を公表している。独禁法自体、そもそも分かりにくい法律なので誤解を受ける余地が多分にあるかもしれないが、わたし自身は、新聞に再販制度はやはり必要だと考えている。

 再販とは、正確に言うなら「再販売価格維持制度」のことだ。商品はメーカー→卸売業者(問屋)→小売業者(小売商店)の順に流れ、それぞれの過程で、つまりメーカーと卸売業者、卸売業者と小売業者との間で売買契約が結ばれる。独禁法の運用上では、どこからいくらで仕入れようが、卸売業者、小売業者ともに販売価格の設定は原則自由だ。メーカーといえども、卸売業者や小売業者の販売価格(仕入れた商品を再び売るので「再販売価格」)の指定はできない。数少ない例外として認められているのが「著作物の再販制度」で、現在では新聞、書籍・雑誌、レコード・CDが公取委の指定を受けている。
 新聞で言えば、発行本社がメーカー、新聞販売店が小売業者ということになる。発行本社が販売店の小売価格を「定価」として指定(維持)しているのが、現行の新聞の再販制度だ。
 今回、公取委が見直しを表明した「特殊指定」は、再販とは別の枠組みだが、再販と深い関係がある。独禁法は「不公正な取引」を禁止しているが、では、どういう取引方法が不公正かについては別途、公取委が基準を設けている。あらゆる商品やサービスの取引に普遍的に適用される「一般指定」のほかに、特定の分野に個別に設けられているのが「特殊指定」だ。
 現行の新聞の特殊指定は「1999年公取委告示第9号」で規定されており、主な内容は①発行本社が地域や相手によって定価を変えてはいけない(ただし学校の教材用などを除く)②戸別配達を行う新聞販売店は、地域や相手によって割引販売を行ってはならない③発行本社は販売店の注文部数以上の新聞を供給したりしてはいけない-だ。
日本の新聞は再販制度と特殊指定によって、同一の題号なら全国どこでも同じ価格で販売されている。「新聞の安売り」は起こり得ない。そのことによって、新聞社は販売収入に一定の安定性を確保することができ、全国隅々に戸別配達網を維持できることにもなる。
 報道によると(朝日新聞東京新聞)、公取委が今回見直しの対象にするのは②の販売店をめぐる規定とみられる。つまり、読者にいくらで売ろうが、それは個々の販売店の自由であり、発行本社の拘束は受けない、ということになるかもしれないということだ。新聞協会の声明を読むと、そうした事態への危機感が露だ。「特殊指定の見直しは、その内容によっては、再販制度を骨抜きにする。その結果、経営体力の劣る新聞販売店は撤退を強いられ、全国に張り巡らされた戸別配達網は崩壊へ向かう」としている。さらに、文字・活字文化振興法が7月に施行されたことを指摘し「官民あげて活字文化の振興に取り組む法制度がつくられた矢先に、時代の要請に逆行するような動きには強く抗議せざるを得ない」と続く。

 ここからが本題なのだが、わたしが新聞に再販制度が必要と考えるのは、再販によって戸別配達網が維持され、そのことによって産業としての新聞が一定の安定性を維持できているからだ。ただし、再販があるから日本の新聞は立派な紙面をつくっているとは毛頭思っていない。新聞が紙面、つまりジャーナリズムの面も、販売や広告を含めた産業の面でも多くの問題を抱えているのは間違いがない。しかし、再販がなければ、確実に今よりも状況は悪くなる。
 再販の撤廃は、同一の新聞でも、題号の異なる新聞同士の間でも必ず安売り競争を招く(実は異なる新聞同士では安売り競争があってもいいのだが、全国紙が全国いっせいに値下げするわけにはいかない。経営への影響が大きすぎる。特殊指定によって、ある地域だけ安売りするわけにもいかないので、結果として安売り競争は起きていない。実はこのへんの事情も公取委は不満なのではないか)。その結果、発行本社の収益は悪化する。必然的に新聞社内でリストラ・合理化が強化される。ただでさえ「人は増えないのに仕事は増える一方」で疲弊しきっている新聞の取材・編集現場は、ますます過酷な労働を強いられることになり、紙面の質の低下をもたらす。今の新聞経営者たちを見ていると、必ずそうなると断言できる。紙面の質の低下もさることながら、どんなにリストラを進めても持ちこたえられない新聞社も出てくるだろう。「全国紙の一角が倒産、廃業」という事態も起こりうる。
 そうなっては「多様な言論」「多様な価値観」の観点から、社会にマイナスになってもプラスになることはない。そのために再販は必要と思うのだが、同時に、社会にも「再販は必要」と理解してもらうために、新聞業界が自主的に解決しなければならない課題も多い。
 そもそも、なぜ著作物に再販制度が適用されているかといえば、著作物には一般消費財とは異なった価値があると認められてきたからだ。民主主義社会に不可欠の多様な価値観、多様な言論を担保するために、広く安定的に社会に流通していなければならない商品と認められてきたからにほかならない。しかし、近年新聞に厳しい批判が向けられていることは、その基本のところがおかしくなっていることを示している。新聞のジャーナリズム性が弱くなっている。
 また、販売面を見ても、今では景品付き販売も解禁されたが本来は再販制度とは矛盾するものだ。言論商品であるからこそ販売制度が認められているのだから、本来は紙面の内容で販売面も競争しなければならない。ルール違反の高額景品や商品券、果ては一定期間契約すれば何カ月間かはタダにするといった販売方法も問題が指摘されている。
 現状の新聞販売の最大の課題が特殊指定の上記③で禁止されている行為だ。「押し紙」とか「無代紙」と呼ばれ、実際には読者に配達されない。なのに、なぜそんな行為をするかというと、見かけの発行部数が増えるからだ。これは広告収入を左右する。実は販売店にとっても、見かけだけでも扱い部数が増えれば折り込みチラシの収入増に直結する。しかし、広告主から見れば広告効果が水増しされて代金を請求されることになり、詐欺に等しい。

 このままでは、いくら再販制度の必要性を訴えても社会の理解は得られないと思う。それは分かっている。しかし、再販制度が撤廃されれば、新聞は今以上に悪くなっていくだろう。わたしの考えを補足すると、新聞に再販制度はなお必要だが、その前提として、新聞業界が(労働組合も含めて)自ら信頼回復に努めることが不可欠だ。
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by news-worker | 2005-11-08 01:26 | メディア