<   2005年 11月 ( 16 )   > この月の画像一覧

 

メディアの信頼回復

 先週の土曜日(12日)の午後に「報道と知る権利~マス・メディアの“今”を問う」と題した月刊誌「マスコミ市民」主催のシンポジウムに出演した。パネラーはビデオ・ジャーナリストの神保哲生さん、元NHK記者で椙山女子大客員教授の川崎泰資さんにわたし、コーディネーターはアジアプレス・インターナショナル代表の野中章弘さんという顔ぶれ。
 わたしの発言としては、メディアの現場では「企業第一主義」とでも呼ぶべき利益・効率優先主義のもとで、日々の取材・報道をジャーナリズムの観点から議論する余裕も雰囲気もなくなっていること、経営者も「企業の生き残り」は口にしても「ジャーナリズム」を口にすることがなくなっていること、その結果、記者一人ひとりの良心が組織の中で孤立化していっていることなどを話した。また、全下野労組の争議も紹介し、そうした中でも闘う新聞の労組があり、働く者の立場で横の連帯を再構築していくきっかけになるということも話した。
 しかし、会場の参加者にはあまりピンとこなかったかもしれない。むしろ、これだけメディアのあり方が問われているのに、労働組合は、新聞労連は何をするつもりなのか、といった趣旨の厳しい質問を受けた。NHKの番組改変問題でも、NHKも朝日新聞も労働組合が前面に出てこないのはなぜか、という質問もあった。それは恐らく編集権(対外的な意味ではなく、メディア内部の問題として。つまりメディア企業ならどこでも経営者たちは「編集権は会社にあり、個々の社員や労働組合は関与できない」というスタンスだ)の問題が根底にあるだろう、という答えしかできなかった。
 シンポを終えて、やはりわたしたちメディアの内部にいる人間と、外からメディアを見ている人たちとの間の温度差を感じないわけにはいかなかった。今、新聞など既存のマスメディアは相当に厳しい目で見られている。しかし、そのことに内部の人間がどこまで本当に気付いているか、ということだ。これは、わたしたち労働組合にもあてはまる。
 メディアの信頼回復のためには、外の世界に出て行くしかない。いいことも悪いことも、包み隠さずさらけだし、批判は批判として受け止めなければならない。そうしないと市民の理解と応援は得られない。マスメディアが市民から孤立していけば、ただの「だめな会社」だ。
 新聞労連の委員長として言うべきことではないかもしれないが、シンポでは「ひどい報道だ、と思ったら新聞の購読をやめてください。『会社の生き残り』しか頭にない経営者たちにはそれがいちばん効く。でも、逆に『こんな記事を読みたかった』というようないい記事は応援してください。『ぜひ続けてくれ』という電話を一本かけてください」と話した。
[PR]

by news-worker | 2005-11-14 01:52 | メディア  

全下野労組が法廷闘争へ

 何度か紹介してきた(ココココココココも)栃木県の地方紙・下野新聞で起きている印刷部門の別会社化・転籍問題は、全下野新聞労働組合が8日、計画の差し止めなどを求める仮処分を宇都宮地方裁判所に申請し、争議入りした。
 別会社化・転籍計画の強行は、全下野労組が下野新聞社と結んでいる労使協約に違反するとの主張だ。労使協約には「新たな資本投下(今回の印刷別会社化も該当する)などは労使の合意を得て実施する」との項目がある。下野新聞社は、労組の「計画の白紙撤回要求」を無視し、9日付の紙面に印刷新会社での就労を前提とした社員募集の社告を掲載することを組合に通告していた。新会社社員の採用は対外的な企業の意思表明であり、それ自体、別会社計画の実質的な強行を意味する。労組は、重大な権利の侵害であり労使協議を無視する暴挙だとして、第3者の判断を求めることに踏み切った。
 実は下野新聞社内では約20年前、発足から間もない全下野労組に対し、会社が労組役員を不当に配転するなど徹底的に弾圧を加えた歴史がある。このとき全下野労組は地方労働委員会に救済を申し立て、争議を構えた。最終的には和解で決着し、正常な労使の信頼関係構築のために結ばれたのが前記の労使協約だった。
 
 仮処分申請にもかかわらず、会社は8日夕方、社告掲載は撤回しないことを労組に通告。組合は午後8時以降、全職場で全面ストに入った。会社は管理職だけで紙面をつくり結果的に社告が掲載された紙面が配達された。しかし、会社が社内世論を無視して強硬姿勢を崩さないことに対して、組合員の怒りは逆に高まってきている。今はモノも言わずに会社の指示に従っている管理職たちの間に動揺が起き始めているのも明らかに感じられる。
 わたしは8日午後から宇都宮に入り、仮処分申請の労組側記者会見に同席。その後も深夜まで、全下野労組の皆さんとともにスト集会や戦術会議に参加した。組合員の「下野新聞をどうするつもりなのか」との思いと熱気を肌身で感じた。「地域に信頼される新聞を守る」との思いが、団結の形になって表れている。争議は始まったばかりだが、言葉だけではないこの本当の団結があれば、負けることはないと確信している。そしてこの争議を通じて、労働組合が何よりも大切にしなければならないものは「権利」だ、という意識が、新聞労連内の他の組合にも自然に広がっていくだろうと思う。労働組合が守るべきは「権益」ではなく「権利」だ。権益は不変不朽のものではないが、権利は不変の真理だからだ。
[PR]

by news-worker | 2005-11-10 13:09 | 全下野新聞労組の闘争  

警察庁記者クラブ裁判の結果(速報)

 出張中でキャッチが遅れたが、前にも書いた(ここ)フリージャーナリスト寺澤有さんらが、警察庁長官の定例会見をめぐって、国とクラブ幹事社(当時)を相手に申し立てていた仮処分申請で、東京地裁が8日、申請を却下する決定を出した。詳しくは寺澤さんのレポートを。この件に関してはあらためて書きたい。
[PR]

by news-worker | 2005-11-09 13:43 | メディア  

それでも新聞再販は必要

 少し前の話だが先週2日、公正取引委員会の事務総長が定例の記者会見で、新聞を含めた独占禁止法上の「特定の不公正な取引方法」(特殊指定)の見直しを表明した。日本新聞協会は同日、再販制度を骨抜きにしかねないとして公取委の方針に抗議し「現行規定の維持を強く求める」とする声明を公表している。独禁法自体、そもそも分かりにくい法律なので誤解を受ける余地が多分にあるかもしれないが、わたし自身は、新聞に再販制度はやはり必要だと考えている。

 再販とは、正確に言うなら「再販売価格維持制度」のことだ。商品はメーカー→卸売業者(問屋)→小売業者(小売商店)の順に流れ、それぞれの過程で、つまりメーカーと卸売業者、卸売業者と小売業者との間で売買契約が結ばれる。独禁法の運用上では、どこからいくらで仕入れようが、卸売業者、小売業者ともに販売価格の設定は原則自由だ。メーカーといえども、卸売業者や小売業者の販売価格(仕入れた商品を再び売るので「再販売価格」)の指定はできない。数少ない例外として認められているのが「著作物の再販制度」で、現在では新聞、書籍・雑誌、レコード・CDが公取委の指定を受けている。
 新聞で言えば、発行本社がメーカー、新聞販売店が小売業者ということになる。発行本社が販売店の小売価格を「定価」として指定(維持)しているのが、現行の新聞の再販制度だ。
 今回、公取委が見直しを表明した「特殊指定」は、再販とは別の枠組みだが、再販と深い関係がある。独禁法は「不公正な取引」を禁止しているが、では、どういう取引方法が不公正かについては別途、公取委が基準を設けている。あらゆる商品やサービスの取引に普遍的に適用される「一般指定」のほかに、特定の分野に個別に設けられているのが「特殊指定」だ。
 現行の新聞の特殊指定は「1999年公取委告示第9号」で規定されており、主な内容は①発行本社が地域や相手によって定価を変えてはいけない(ただし学校の教材用などを除く)②戸別配達を行う新聞販売店は、地域や相手によって割引販売を行ってはならない③発行本社は販売店の注文部数以上の新聞を供給したりしてはいけない-だ。
日本の新聞は再販制度と特殊指定によって、同一の題号なら全国どこでも同じ価格で販売されている。「新聞の安売り」は起こり得ない。そのことによって、新聞社は販売収入に一定の安定性を確保することができ、全国隅々に戸別配達網を維持できることにもなる。
 報道によると(朝日新聞東京新聞)、公取委が今回見直しの対象にするのは②の販売店をめぐる規定とみられる。つまり、読者にいくらで売ろうが、それは個々の販売店の自由であり、発行本社の拘束は受けない、ということになるかもしれないということだ。新聞協会の声明を読むと、そうした事態への危機感が露だ。「特殊指定の見直しは、その内容によっては、再販制度を骨抜きにする。その結果、経営体力の劣る新聞販売店は撤退を強いられ、全国に張り巡らされた戸別配達網は崩壊へ向かう」としている。さらに、文字・活字文化振興法が7月に施行されたことを指摘し「官民あげて活字文化の振興に取り組む法制度がつくられた矢先に、時代の要請に逆行するような動きには強く抗議せざるを得ない」と続く。

 ここからが本題なのだが、わたしが新聞に再販制度が必要と考えるのは、再販によって戸別配達網が維持され、そのことによって産業としての新聞が一定の安定性を維持できているからだ。ただし、再販があるから日本の新聞は立派な紙面をつくっているとは毛頭思っていない。新聞が紙面、つまりジャーナリズムの面も、販売や広告を含めた産業の面でも多くの問題を抱えているのは間違いがない。しかし、再販がなければ、確実に今よりも状況は悪くなる。
 再販の撤廃は、同一の新聞でも、題号の異なる新聞同士の間でも必ず安売り競争を招く(実は異なる新聞同士では安売り競争があってもいいのだが、全国紙が全国いっせいに値下げするわけにはいかない。経営への影響が大きすぎる。特殊指定によって、ある地域だけ安売りするわけにもいかないので、結果として安売り競争は起きていない。実はこのへんの事情も公取委は不満なのではないか)。その結果、発行本社の収益は悪化する。必然的に新聞社内でリストラ・合理化が強化される。ただでさえ「人は増えないのに仕事は増える一方」で疲弊しきっている新聞の取材・編集現場は、ますます過酷な労働を強いられることになり、紙面の質の低下をもたらす。今の新聞経営者たちを見ていると、必ずそうなると断言できる。紙面の質の低下もさることながら、どんなにリストラを進めても持ちこたえられない新聞社も出てくるだろう。「全国紙の一角が倒産、廃業」という事態も起こりうる。
 そうなっては「多様な言論」「多様な価値観」の観点から、社会にマイナスになってもプラスになることはない。そのために再販は必要と思うのだが、同時に、社会にも「再販は必要」と理解してもらうために、新聞業界が自主的に解決しなければならない課題も多い。
 そもそも、なぜ著作物に再販制度が適用されているかといえば、著作物には一般消費財とは異なった価値があると認められてきたからだ。民主主義社会に不可欠の多様な価値観、多様な言論を担保するために、広く安定的に社会に流通していなければならない商品と認められてきたからにほかならない。しかし、近年新聞に厳しい批判が向けられていることは、その基本のところがおかしくなっていることを示している。新聞のジャーナリズム性が弱くなっている。
 また、販売面を見ても、今では景品付き販売も解禁されたが本来は再販制度とは矛盾するものだ。言論商品であるからこそ販売制度が認められているのだから、本来は紙面の内容で販売面も競争しなければならない。ルール違反の高額景品や商品券、果ては一定期間契約すれば何カ月間かはタダにするといった販売方法も問題が指摘されている。
 現状の新聞販売の最大の課題が特殊指定の上記③で禁止されている行為だ。「押し紙」とか「無代紙」と呼ばれ、実際には読者に配達されない。なのに、なぜそんな行為をするかというと、見かけの発行部数が増えるからだ。これは広告収入を左右する。実は販売店にとっても、見かけだけでも扱い部数が増えれば折り込みチラシの収入増に直結する。しかし、広告主から見れば広告効果が水増しされて代金を請求されることになり、詐欺に等しい。

 このままでは、いくら再販制度の必要性を訴えても社会の理解は得られないと思う。それは分かっている。しかし、再販制度が撤廃されれば、新聞は今以上に悪くなっていくだろう。わたしの考えを補足すると、新聞に再販制度はなお必要だが、その前提として、新聞業界が(労働組合も含めて)自ら信頼回復に努めることが不可欠だ。
[PR]

by news-worker | 2005-11-08 01:26 | メディア  

記者クラブ改革

 民放労連を母体とし、メディア研究者やジャーナリストらが会員となっている「メディア総合研究所」の依頼で、同研究所が発行する月刊誌「放送レポート」用に、記者クラブ問題をテーマにした対談を4日夜に行った。対談相手はフリージャーナリストの寺澤有さん。寺澤さんは警察裏金問題を追及する中で、漆間厳・警察庁長官に直接取材したいと考え、長官の記者会見への出席を申し入れたが断られた。現在、警察庁(国)と警察庁記者クラブ(当時の幹事社3者)を相手に東京地裁に仮処分を申し立てて争っており、近く、地裁の決定が出る見通しという。(この件はここが詳しい。寺澤さんのレポートが連載されている)
 対談の内容は、12月に発行予定の「放送レポート」を待ってもらうとして、寺澤さんと色々お話して、あらためて感じたのは、記者クラブ問題での既存メディア側の感度の鈍さだ。要するに、記者クラブの閉鎖性や排他性、官公庁からの記者クラブ加盟メディアだけへの便宜供与とそこから発生する「癒着」、記者クラブを舞台にした取材・報道の制限(内部では「縛り」と呼んでいる)、その他もろもろの批判に対し、そうした批判があることは知識としては知っていても、どこまで各メディアに当事者意識が浸透しているか疑問、ということだ。
 記者クラブをめぐっては新聞協会も改革の必要性は認め、数度にわたって見解を出している(新聞協会HPトップから「取材と報道」へ)。ごく大雑把に言うと、記者クラブは新聞が権力の監視役を果たすために、加盟記者が一団となって情報開示を迫る場として、現在も必要であることは変わりがないとし、その上で、新聞協会加盟社だけでなく、それに準じる外国報道機関などに門戸を開放する一方、人命にかかわるテーマや叙位叙勲などを除いては、取材報道を制限する協定は結ばない、ということだ。
 この新聞協会の見解へも色々議論があるし、一方ではこの見解に照らしても「ひどい」という実態の記者クラブも数多い。しかし、それはさておいても、この見解には強制力がない。どこをどう改めていくかは、全国に無数にある記者クラブがそれぞれ独自に決めるしかない。そして、記者クラブとはもともと統一の意思を持った組織、集団ではない。加盟している記者のだれかが問題提起をしなければ、何も始まらない。クラブに古顔の仕切り役の記者でもいると、それもなかなか言い出しにくい。結局は前例踏襲のままだ。
 新聞社の側から見ると、自社の記者が加盟している記者クラブは、全国紙ならそれこそ全国にゴマンとある。地方紙だって一つの県内でみても10くらいはある。「うちが音頭を取って改革を」などとは、おいそれとは言い出せない。ただでさえ忙しいのに、だれも自社からそんな面倒な話を持ち出そうとは思わない。何よりも、記者クラブが変わらなくても毎日毎日、記事は出稿され、新聞は発行されている。記者クラブを変えなくても新聞発行には支障がない。だから、記者クラブ改革の当事者意識が希薄になるのではないか。
 詰まるところ、記者クラブ改革は内部からは遅々として進まない。あるいは極めて足取りが遅い。状況を変えうるのは、寺澤さんたちの裁判のような「外圧」しかないのか、と思う。
 新聞労連も1990年代後半以降、記者クラブの改革を訴え続けている。新聞協会の見解よりも踏み込んで、権力の監視という意味での「報道」に携わる者ならだれにでも広く、市民にも門戸を開くことを提言している。「ブログジャーナリズム」が現実のものになりつつある今、こういった視点はますます重要になってきている。
 わたし自身も記者クラブは必要と考えているが、それは今の状態のままの記者クラブが前提ではない。「なぜ記者クラブは必要か」を社会に理解してもらうには、まず、メディアが自己改革をしなければならないと思う。本当に、民主主義に寄与する言論・報道機関足りえているのか、という意味でだ(これは新聞の販売面の課題である再販問題にも通じる。再販をめぐっては最近、公取委から新たな方針が打ち出されたが、そのことは近くあらためて書きたい)。わたしたち既存のメディアの内部にいる人間がまずやらなければいけないのは、メディアの自己改革だとつくづく感じている。

 記者クラブや既存メディアが改革の主体足りえないとしても、メディア内部で問題意識を持っている者と外部の人たちとで、変革を促す動きを作ることは可能ではないかと考えたりする。北海道新聞の高田昌幸さんが提唱している「自由記者クラブ」構想はそのひとつだ。
[PR]

by news-worker | 2005-11-06 17:08 | メディア  

西多摩新聞労組の皆さんとバーベキュー

 新聞労連には84の組合が加盟している。84番目に加盟したのが、東京の多摩地区西部で週刊の紙面2万部を発行している「西多摩新聞」の労働組合だ。いわゆる地方紙よりもさらに経営規模が小さい地域紙だが、自前で自治体の動向や地域の話題を取材し、戸別配達を行っている。社長の代替わりが予測された中で、地域紙としての将来に不安を抱いた社員たちが6月に労組を結成した。
 3日は、西多摩新聞労組の皆さんと一緒に、奥多摩の山中でバーベキュー。自然豊かな中で、楽しい休日を過ごした。
c0070855_812527.jpg

 
[PR]

by news-worker | 2005-11-04 08:12 | 身辺雑事