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「ニコンがフィルムカメラから撤退」に感慨

 ニコンがフィルムカメラから撤退し、デジカメに特化するとのニュースに接して感慨を抱く。
 わたしが記者になったのは1983年。当時、取材現場では写真は白黒フィルムで、新聞紙面もまだカラー印刷は珍しかった。記者職の新入社員の研修では、写真取材の時間が長かった。写真部のデスクが先生。生徒の方は、写真部採用のカメラマンは別として、ほとんどはカメラといえば「押せば写る」コンパクトカメラしか手にした事がない、というレベルだったと思う。なぜ写真は写るのか、といった原理の話からシャッタースピードと絞りの関係など、理屈を一通りレクチャーしてもらったら、あとはひたすら実技。会社の写真部はもっぱらニコン製品を使っていた。新人記者たちは一眼レフカメラを手に、まずは室内での模擬インタビュー写真。暗室でフィルムを現像してネガをつくり、印画紙に焼き付けてプリント。初めての経験だったが、とにかくおもしろかった。
 1カ月近い研修の終わりごろ、カメラを手に街に出た。お題は「きょうという日の一枚」だったと思う。霞が関の官庁街で桜が散る様子が「まるで吹雪のよう」と写真説明を付けて提出したら、それまで絶対に新人記者たちを褒めなかった写真部デスクから「なかなか筋がいい」と言われ、嬉しかったのを覚えている。
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 やがて配属先も決まり、そろそろ研修も終わりというころ、ニコンの営業担当者が会社に来て、そこで当時の最高モデル「F3」をローンで買った。「PROFESSIONAL」のロゴが入った黒と黄色のニコンのストラップが付いていて、晴れがましい思いがした。初任地の青森では、米軍三沢基地取材で戦闘機の写真を撮るために、高速で連続撮影ができるモータードライブを買った。
 支局では暗室も粗末で、現像液や定着液も支局員がパック詰めの粉末薬を自分で水に溶いてつくる。大体、新人記者の仕事だった。青森支局では、冬場は薬品の温度管理に気を使った。薬品をいじった後は、手に酸っぱいにおいが付いて「寿司を握ったみたいだ」と先輩たちと笑い合った。
 記憶をたぐってみるが、写真処理はまずフィルム現像に10分程度。ついでネガを乾かし、焼付けにやっぱり10分くらいはかかったと思う。定着液に付ける時間が短いと、出来上がった写真は黒ずんだ。印画紙を乾かして、電送機に装着するまでにやっぱり5分から10分くらいはかかったか。電送は5分くらいだった。電送機は回転ドラム型。ファクスと原理は同じと聞いていた。白黒写真の白と黒の濃淡を電気信号に換えて送ったらしい。
 支局には専門のカメラマンはいなかったから、急ぎの写真が必要な場合は記者2人で取材現場に行った。1人は写真に専念し、撮影が終わったら大急ぎで支局に戻り、手を酸っぱくしながら処理をした。
 あのころは、どこに行くにもバッグの中にはニコンF3と筆記用具と公衆電話からの連絡用の10円玉(いつも20枚くらいは持っていた)が入っていた。少し気取って言えば、F3のファインダーから「時代の現場」をのぞいていた。

 月日が経って、今は取材現場もデジカメに変わっている。写真もデータとしてパソコンから送信する。記者が持ち歩くのはデジカメにパソコン、携帯電話。確かに便利になったが、以前のように現場に記者2人で行って1人は写真に専念、などということはもう許されない。1人で話を聞いて記事にまとめ、1人で写真を撮ってパソコンから送らなければならない。写真を送っている間にもデスクから記事の問い合わせなど連絡が来るから、場合によっては携帯電話は2台必要。パソコンのバッテリーの予備や担当している分野の取材資料なんかも持ち歩く。わたしがデスクで勤務していた支局に配属された新人記者は、毎日ショルダーバッグを2つ下げて歩き回っていた。
 記者の装備が変わっていくのにつれて、支局1カ所あたりの配置記者の数も減らされた。つまり編集職場の合理化だ。そのことの問題点は、別の機会に書きたい。

 いつからか、わたしのカメラもF3からオートフォーカスのコンパクトカメラに変わり、今は手のひらに収まるくらいのデジカメに変わっている。晴れの日の記念写真はF3で撮ったりしていたが、今はそれもない。

by news-worker | 2006-01-15 00:37 | 身辺雑事  

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